承久の乱とは何だったのか――「武士の時代」が決定的になった歴史的転換点

日本史

承久の乱(じょうきゅうのらん、1221年)は、京都の朝廷が鎌倉幕府に武力で挑み、完敗した事件です。
一言でいえば、「天皇が負けた戦争」。そしてこの敗北によって、日本の政治構造は決定的に変わりました。

この乱は単なる内乱ではなく、公家政権から武家政権への主導権移行が、理念ではなく武力で確定した瞬間だったと言えます。


時代背景――なぜ後鳥羽上皇は立ち上がったのか

12世紀末に成立した鎌倉幕府は、源頼朝の死後、将軍家の力が急速に弱まり、実権は北条氏(執権)に集中していました。
一方、京都では後鳥羽上皇が「院政」を敷き、政治的主導権の回復を目指していました。

ここで重要なのは、朝廷と幕府がそれぞれ「正統性」を異なる根拠で主張していた点です。

朝廷は、「天皇こそが国家の中心であり、武士は本来その家臣にすぎない」と考えていました。
これに対し幕府側は、「土地を守り、治安を維持しているのは武士であり、その現実こそが政治の正統性だ」と自負していました。

さらに、承久年間に入ると後鳥羽上皇は、

  • 西国武士への恩賞
  • 幕府に不満を持つ御家人の取り込み
  • 朝廷主導による政治復権構想

を着々と進めます。

つまり承久の乱は、思いつきの反乱ではなく、長年の不満と構想の末に起こった「計画された決起」だったのです。


主要登場人物――この戦いを動かした人々

後鳥羽上皇

承久の乱の首謀者。文化人としても名高く、『新古今和歌集』の編纂者でもあります。
政治的には、武士政権を「暫定的存在」と見なし、天皇中心の秩序を取り戻そうとしました。

北条義時

鎌倉幕府の執権。実質的な最高権力者です。
後鳥羽上皇から「朝敵」と名指しされたことで、幕府側は「生き残りをかけた戦争」を余儀なくされます。

北条政子

源頼朝の未亡人。尼将軍として有名です。
乱に際して御家人たちに行った演説(『吾妻鏡』所載)は、「幕府と運命を共にせよ」という強烈な政治メッセージでした。


乱の推移――勝負は最初から決していた

1221年、後鳥羽上皇は幕府打倒の院宣を発します。
これにより、幕府は公式に「朝敵」とされました。

しかし結果は、驚くほどあっけないものでした。

鎌倉幕府は即座に大軍を編成し、東海道・東山道・北陸道の三方向から京都へ進軍します。
一方、朝廷側は西国武士の動員に失敗し、軍事的統制も取れませんでした。

最大の問題は、朝廷が「武士の戦争」を理解していなかったことです。
個々の武士の利害や、戦場での実務能力において、幕府軍との差は歴然としていました。

わずか一か月ほどで京都は制圧され、後鳥羽上皇は降伏します。


戦後処理――朝廷の完全敗北

承久の乱の本当の衝撃は、戦後処理にあります。

後鳥羽上皇は隠岐に配流され、
順徳上皇は佐渡へ、
仲恭天皇は即位からわずか数か月で廃位されました。

さらに幕府は京都に六波羅探題を設置し、朝廷を直接監視下に置きます。
これは、「天皇のいる京都に、武士政権の出先機関を常設する」という、従来では考えられない措置でした。

また、朝廷方についた貴族・武士の所領は没収され、多くが幕府方に与えられます。
これにより、幕府の支配は西国にまで一気に拡大します。


朝廷はなぜ読みを誤ったのか

――承久の乱に見る「制度の時差」

承久の乱における朝廷の敗北は、「戦に弱かったから」でも「後鳥羽上皇の判断ミス」でもありません。
より本質的には、朝廷の政治制度そのものが、すでに現実社会の作動原理とズレていたことに原因があります。

言い換えれば、朝廷は「過去に有効だった統治モデル」を前提に意思決定を行い、すでに別の制度で動いていた武士社会を誤読したのです。


①「官職=支配力」という制度的前提の崩壊

律令国家以来、朝廷の統治原理は一貫していました。
それは、官職を与えること=支配権を与えることという発想です。

国司・受領・守護といった役職は、形式上はすべて朝廷の任命によって成立します。
後鳥羽上皇はこの延長線上で、

「幕府もまた、朝廷が任じた存在にすぎない」

と考えていました。

しかし鎌倉幕府の御家人たちは、
「官職」ではなく「所領の実効支配」によって生きていました。
彼らにとって重要なのは、朝廷の辞令ではなく、

  • 地頭職を認めてくれるか
  • 紛争の裁定をしてくれるか
  • 所領を守ってくれるか

という、現場レベルの統治能力でした。

朝廷は「官職秩序の論理」で幕府を動かせると考えましたが、
武士社会はすでに「土地管理の制度」で動いていたのです。


②「院宣」の万能性という過去の成功体験

後鳥羽上皇が乱を決断できた背景には、院宣という制度への過信があります。

院宣とは、上皇が発する政治命令であり、平安後期には、
これ一つで武士が動き、政変が起きることも珍しくありませんでした。

実際、保元・平治の乱では、
「どの院宣に従うか」が武士の行動基準になっていました。

しかし承久の乱の時点では、
武士はもはや「命令の正統性」ではなく、
自分の所領が守られるかどうか」で動いていました。

院宣はもはや「動員装置」ではなく、
理念的な文書に後退していたのです。

朝廷は、制度が変質したことに気づかないまま、
かつての成功体験を再演しようとしました。


③「武士は分裂する」という誤った制度認識

朝廷は、幕府を一枚岩ではないと見ていました。
これは事実としては正しい認識です。

実際、鎌倉幕府内部には、

  • 北条氏への不満
  • 将軍家の弱体化
  • 御家人間の利害対立

といった不安定要素が山積していました。

問題は、その分裂を制御する制度が、すでに幕府側に存在していたことを見落とした点です。

幕府は御家人を、

  • 御恩(所領安堵・新恩給与)
  • 奉公(軍役・警備)

という明確な双務関係で結びつけていました。

この制度は、「不満はあっても、幕府が崩れれば自分も終わる」という
利害共同体を生み出していたのです。

朝廷は、武士を「私的集団の寄せ集め」と見なしましたが、
実際にはすでに制度的に統合された政治主体になっていました。


④「武力=兵数」という古い戦争観

制度史的に見て、もう一つ大きな誤算があります。
それは、戦争を「兵の多寡」で捉える発想です。

朝廷は、

  • 西国武士の数
  • 皇室の権威
  • 京都という象徴空間

を押さえれば、形勢は有利になると考えました。

しかし幕府軍は、

  • 動員
  • 兵站
  • 指揮命令系統
  • 継戦能力

を備えた、常設的な軍事組織でした。

これは「一時的な挙兵」と「制度化された軍事力」の差であり、
もはや勝負になる段階ではありませんでした。


⑤「国家は一つ」という幻想

朝廷の最大の読み違えは、
「国家は一つであり、その中心に自分たちがいる」という前提です。

しかし13世紀初頭の日本は、事実上、

  • 京都を中心とする儀礼国家
  • 鎌倉を中心とする武士国家

という二重国家の状態にありました。

後鳥羽上皇は、幕府を「反乱勢力」と見なしましたが、
幕府側から見れば、これは存立を賭けた国家間戦争でした。

北条政子の演説が御家人を動かしたのは、
「朝廷に逆らえ」ではなく、
「ここで負ければ、あなたたちの社会そのものが消える」という
制度的現実を突いたからです。


結論――敗れたのは人ではなく制度である

承久の乱で朝廷が敗れた最大の理由は、
すでに終わっていた制度の論理で、現実を解釈し続けたことにあります。

後鳥羽上皇は無能ではありません。
むしろ、平安国家の論理においては、極めて合理的に行動したと言えます。

しかし、社会の作動原理が変わったとき、
制度はそれを自ら告げてはくれません。

承久の乱は、
「制度が現実に追いつけなくなったとき、どのような破局が起きるのか」
を示す、日本史屈指の制度史的事件なのです。


後世への影響――「天皇は勝てない」という前例

承久の乱が残した最大の影響は、「天皇であっても、武力で幕府を倒すことはできない」という前例を作ったことです。

以後、天皇や朝廷は、直接武力に訴えることを避け、
象徴的・宗教的・文化的権威としての役割に重心を移していきます。

一方で幕府は、「天皇を排除しないが、政治的実権は握る」という二重構造を完成させました。
この構造は、室町幕府、さらには江戸幕府へと受け継がれていきます。

承久の乱は、単なる一度きりの内乱ではありません。
それは、日本史における「武士の時代」の不可逆的な確定点だったのです。

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『日本史のツボ』(文春新書)、『ヤバイ日本史』などで知られる人気歴史学者が、専門である鎌倉時代を舞台に、満を持して取り組んだ意欲作です。本郷さんは鎌倉時代の基本史料『現代語訳 吾妻鏡』の編者の一人でもあります。誰もが日本史上の重要トピックと...


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