三国志において、劉備最大の失敗として必ず名前が挙がるのが、夷陵の戦い(猇亭の戦い)です。
蜀漢皇帝となった劉備が、呉の孫権に対して大軍を率いて出陣し、陸遜の火計によって壊滅的敗北を喫した戦いです。
この戦いはしばしば、
- 「関羽の仇討ちに狂った感情的な戦争」
- 「諸葛亮の諫言を無視した独断専行」
- 「老いた劉備の判断ミス」
と語られます。
しかし本当に、夷陵の戦いは単なる愚行だったのでしょうか。
本記事では、劉備の生存戦略という視点から、
夷陵の戦いを「失敗」と断じる前に再評価していきます。
夷陵の戦いの前提|なぜ劉備は呉を討たねばならなかったのか
夷陵の戦いの直接的な原因は、関羽の敗死と荊州喪失です。
- 呉の呂蒙による奇襲
- 関羽の捕縛・処刑
- 蜀と魏をつなぐ要衝・荊州の消失
これは単なる一将の死ではありません。
蜀漢にとっては、
- 北伐の拠点を失う
- 呉との同盟が完全に破綻
- 国家の正統性に傷がつく
という国家存亡レベルの事件でした。

劉備が「何もしない」選択は可能だったのか
もし劉備が呉を討たなかった場合、
- 皇帝としての威信は失墜
- 将兵の士気は崩壊
- 「関羽を見捨てた主君」という評価が定着
した可能性があります。
つまり夷陵出兵は、
感情だけでなく、政治的・象徴的に避けがたい選択でもあったのです。
戦略面で見た夷陵の戦い|どこに問題があったのか
問題①:戦争目的が曖昧だった
夷陵の戦いにおける最大の問題は、
「どこで、何をもって勝利とするか」が不明確だった点です。
- 荊州の完全奪還か
- 呉の降伏か
- 孫権の討伐か
目的が定まらないまま、劉備軍は長大な戦線を形成し、
結果として補給・防衛ともに脆弱な布陣を敷くことになりました。
問題②:諸葛亮・趙雲ら主戦力が不在
夷陵出兵において、劉備は
- 諸葛亮
- 趙雲
といった蜀の中核人材を後方に残しています。
これは国内統治のためには合理的判断でしたが、
同時に、
- 戦略立案
- 撤退判断
- 若手将軍の統制
を担える人物が前線にいないという致命的欠点にもなりました。
問題③:陸遜という「新世代」を見誤った
呉軍総司令官・陸遜は若く、実績も乏しかったため、
劉備側は彼を軽視していました。
しかし陸遜は、
- 持久戦で蜀軍を疲弊させ
- 夏の高温と森林地帯を利用し
- 火計による決定打を放つ
という、極めて冷静かつ合理的な戦術を展開します。
これは、老練な劉備が時代の変化を読み切れなかった瞬間とも言えるでしょう。
感情論としての夷陵|劉備は本当に「怒りに負けた」のか
関羽の死は「象徴」の喪失だった
関羽は単なる将軍ではありません。
劉備にとって関羽は、
- 義の象徴
- 正統性の証明
- 人生そのもの
とも言える存在でした。
その死を放置することは、
これまで築いてきた劉備というブランドを自ら否定する行為でもあったのです。
皇帝・劉備が背負った立場の重さ
夷陵の戦い当時、劉備はすでに蜀漢皇帝でした。
- 私的感情では動けない
- しかし、何もしなければ国家が瓦解する
このジレンマの中で下した決断が、夷陵出兵だったと考えれば、
単純な「感情的判断」とは言い切れません。
結果としての大敗|それでも蜀は滅びなかった
夷陵の戦いは大敗北でしたが、
蜀漢はこの戦いで即座に滅亡してはいません。
- 劉備は白帝城で後事を託す
- 諸葛亮が内政・外交を立て直す
- 呉との関係も最終的には修復
これは、劉備がそれまで築いてきた
人材・制度・正統性が機能した証拠です。
もしこれが、
恐怖と強制で成り立つ国家であったなら、
一度の大敗で崩壊していた可能性も高いでしょう。
総合評価|夷陵の戦いは「失敗」だが「愚行」ではない
夷陵の戦いは、間違いなく軍事的失敗です。
しかしそれは、
- 劉備の人生すべてを否定するものではない
- むしろ彼の限界と人間性を示す戦い
だったと言えます。
劉備は最後まで、
- 義を重んじ
- 人を裏切らず
- 自らの物語を貫いた
その結果として敗れた――
それは、生存戦略の終着点としての敗北だったのです。
おわりに|夷陵の戦いが三国志を名作にした
もし劉備が夷陵で勝利していたなら、
三国志はここまで語り継がれていなかったかもしれません。
失敗し、老い、後を託して去っていく――
その姿こそが、劉備という人物を
単なる勝者ではなく「物語の主人公」にしたのです。
だからこそ夷陵の戦いは、
劉備最大の失敗であり、
同時に彼を最も劉備らしくした戦いだったと言えるでしょう。



コメント