小説や漫画、ゲームなどで大人気なコンテンツ、それが三国志です。
古代中国のある一時代の話が、なぜこれほど私たちの心ををひきつけて離さないのでしょうか?
その面白さの秘密はどこにあるのでしょうか?
今回のテーマは、三国志を探求したいと思います。
三国志って一体なに?
どんな話なの?
全く知らないよ。
こんな方々にもわかってもらえるように説明していきたいと思います。
三国志ファン歴20年の私がたっぷりとご紹介します。
さっそく参りましょう。
三国志って、そもそも何?
三国志の基礎知識
三国志には史実と小説の二つがある
これはどういうことかというと、三国志には歴史書と、それをもとに創作した小説との2種類があるのです。
歴史書のほうは、晋の陳寿という人がまとめた「三國志」というさまざまな人々の伝記を集めたような歴史書のことです。
これが本当の三国志です。
紀伝体と呼ばれる形式のものですが、この歴史書は個人個人の伝記が集められているので、個々人のキャラクターの特徴はつかみやすいですが、時系列を追うことができません。
厳密に言えばできなくはないですが、面倒な作業になります。
一方、小説の方は、羅貫中という人が書いた「三國志演義」のことを指します。
羅貫中は14世紀ごろに活躍した人で、上記の陳寿の「三國志」をもとに、物語として編集したのです。
もちろん小説ですから荒唐無稽な話も付け加え、話を大いに盛り上げ面白おかしく脚色していますが、大体のところは陳寿「三國志」に忠実です。
この羅貫中のおかげで、三国志は一般庶民にも広く知られるようになったといえます。
さまざまな登場人物たちも人口に膾炙していきました。
もちろん、そのほとんどは実在の人物です。
曹操や劉備、諸葛孔明などは誰しも聞いたことがあるでしょう。
ちなみに、今回ご紹介するのは小説ではなく、史実の方です。
陳寿の三国志に準拠していますので、その点はご了承ください。
では、三国志の舞台はいつの時代なのか。
次はこの点を紹介していきます。
三国志の舞台
場所は中国、時代は2世紀から3世紀、それが三国志の舞台です。
中国には巨大な河が二つありますよね。
そうです。
黄河と長江です。
黄河の中流域と下流域が華北で、長江中流域と下流域が華南です。
華北を勢力範囲としたのが魏という国、長江中流域と下流域をおさえたのが呉、長江上流域に拠ったのが蜀、この魏・呉・蜀の三国が激戦を繰り広げたのが三国志です。
もちろん、三国が鼎立するまでも多くのドラマがあるわけですが、それは後ほど説明します。
物語の舞台が華北と華南、そして四川盆地となります。
そして物語は2世紀後半から始まります。
つぎに、時代背景について目を通しておきましょう。
三国志の時代背景
2世紀の中国は漢王朝の時代です。
漢王朝は、紀元前202年に劉邦という人が建てた王朝です。
その後、200年ほどして王莽という家臣が劉氏を退け、自ら皇帝となり「新」という国をおこし、漢王朝は一旦滅びます。
しかし、劉秀(光武帝)がふたたび「新」を滅ぼし、漢王朝を復興します。
劉邦が建てたのを「前漢」、劉秀が建てたのは「後漢」と呼んでこれを区別しています。
また、「前漢」は長安を都とし、「後漢」は洛陽を都としたため、「前漢」のことを「西漢」、「後漢」を「東漢」とも呼びます。
三国志は「後漢」末期をその舞台とするわけですが、崩壊しつつある漢王朝体制から新しい制度に移行しようとする勢力の代表が曹操であり、あくまで漢王朝体制を守ろうとする勢力の代表が劉備、そして両者のはざまにあって独自の道を行くのが呉の孫権、という図式で理解しておきましょう。
箇条書きにまとめてみます。
・魏の曹操→漢王朝のアップデートとシステムの更新をもくろむ
・蜀の劉備→漢王朝のシステムをあくまで守ろうとし、曹操と全面対決する
・呉の孫権→曹操、劉備の争いの間で、独自の統治システムのもと独立を守る
曹操と劉備は明確な対立者ですから、三国志の物語はこの両者を中心に展開していくことになります。
二人はまさに宿命のライバルといったところです。
孫権はやや影が薄いように感じられますが、単なる端役で終わらないのが三国志の奥深いところです。
さて、それでは三国志を理解するための基本知識として、漢王朝のシステムについて少し見ていきましょう。
とくに「宦官」というユニークなシステムについてぜひ知ってほしいと思います。
漢王朝のシステム
漢王朝を理解するときに重要なタームは二つです。
「郡県制」と「宦官」です。
この二つをそれぞれ説明していきましょう。
郡県制
郡県制は、現在の統治システムと大きく違うわけではありません。正確には漢帝国のシステムは「郡国制」ですが、実際の運用の上では郡県制と変わりありません。秦帝国が採用した「郡県制」を理解しておくのが簡便です。
では郡県制とは何かといえば、それは地方の統治に関する方法のことです。
たとえば、各地方の州の長官や郡・県の責任者などが中央から派遣されてその職務を遂行するのが郡県制です。
つまり、中央の意向次第でどの任地にも異動できる建前ですから、現在の官僚とその点は変わりません。
漢王朝は、皇帝とその手足となって働く官僚と、この2種類が統治を担当する機関です。
ただし、中央から派遣される官僚も実際の業務は現地の有力者の協力が不可欠ですから、当然、両者の癒着は必至です。
場合によっては、形式上の統治者は中央官僚でも、実際の権力は在地の有力者が握っているという例も珍しくありません。
中央との結びつきが弱い遠隔地などはこういう傾向になりがちです。
じつは、孫権の呉地方はこういう傾向が強いのです。
在地の有力氏族が大きな影響力を持っており、彼らの支持無しでは統治を続けていくことはできません。
孫権の兄・孫策が江東を勢力基盤としつつも、若くして落命したのには、在地の有力者の反感を買ったからだといわれています。
最悪の場合、命も失うわけですから、有力者たちとの関係には非常に気を使わなければなりません。
逆にいえば、地方有力者の支持を取り付ければ、安定した政権が築けるということでもあります。
孫権の場合がまさにそのパターンでした。
では、そもそもどうやって官僚になるのでしょうか。
漢王朝の任用システムに「孝廉」というのがあります。
これは、学問・徳行ともにすぐれた人物を推薦するというシステムで、「孝廉」に推挙されれば官僚として中央政界への道が開かれます。
この「孝廉」になれるのは、毎年20万人に1人といいますから、大変な倍率です。
有力者の推薦ナシではなれませんので、完全な出来レースでもあります。
今はやりの上級国民どころの話ではありません。
エリート中のエリートです。
ちなみに曹操は20歳で孝廉に挙げられていますから、彼がいかに名門の出であるかがわかるというものです。
以上で郡県制のさわりは理解できたと思います。
それでは、もうひとつの「宦官」について説明しましょう。
宦官
宦官は皇帝のそば近くに仕え、身の回りの世話をするのが仕事です。
役人の一種には違いありませんが、通常の役人と決定的に違う点があります。
それは、宦官になるためには男性器を切除しなければならないということです。
皇帝のそば近くで働くわけですから、当然、後宮の管理もこの宦官の仕事に入ります。
そこで、男性器を切り取ってしまえ、という発想になるのが興味深いところです。
男子禁制にして女官で対応するという発想にはならないようです。
この宦官は、本来は政治上の権限は無いのですが、なんといっても皇帝と接する機会が多い仕事です。
皇帝の機嫌を取り、皇帝が子供の頃から一緒に遊んであげるのも宦官ですし、悩みを聞いてあげるのも宦官たちです。
自然、皇帝が信頼するのは身近な宦官たちということになっていきます。
漢王朝に限らず、歴代中国の王朝は、すべての権力を握るのは皇帝ひとりであり、官僚たちは皇帝の権力を代行するだけにすぎません。
その皇帝の信頼を得るというのがどれほどの権力を生むか、容易に想像しうると思います。
漢王朝は宦官の弊害がとくにひどかった王朝だといわれています。
システム上の欠陥であることはあきらかですが、なぜか中国ではこの宦官制度を廃止しようという方向に向かいませんでした。
20世紀に清帝国が辛亥革命で倒れるまで、この宦官という制度は存続したのです。
後漢王朝から三国時代まで
それでは、ここから時系列で三国志を概観してみましょう。
後漢王朝も2世紀半ばを過ぎるころには腐敗が進み、とくに外戚やそれらと結託した宦官たちの横暴が目に余るようになってきます。
もちろん、宦官を排斥しようという運動もないわけではありません。
とくに西暦125年に即位した順帝は、改革への情熱に燃え、民間から人材を抜擢して改革にあたらせようとしましたが、うまくいかず、かえって権力闘争で宦官の力を強める結果におわっています。
166年には「党錮の禁」で反宦官勢力が一掃されてしまうという事件も起こりました。
制度疲労と宦官の横暴で地方の世論には相当の反発があったようですが、漢王朝を揺るがす一大事件は、中央政界の混乱とは関係なく突然に地方で勃発します。
いわゆる「黄巾の乱」です。
184年 黄巾の乱
これは中国全土で勃発した反乱なのですが、同じ日に全国同時に反乱が始まったといいますから、事前に綿密に計画が練られていたことは間違いありません。
この反乱の主体は「太平道」という宗教団体で、信者を36の軍団に分けて中国各地で決起させました。
彼らは黄色い頭巾を着用していたがために「黄巾賊」と呼ばれます。
首領は張角という男で、自ら「天公将軍」と名乗り、弟の張宝・張梁とともに各地を攻め落とし、天下は大混乱に陥ります。
漢王朝も手をこまねいているだけではありません。
盧植や皇甫嵩、朱儁などに命じて黄巾賊を討伐させます。
黄巾賊は184年の2月に挙兵して、10月には張梁が皇甫嵩に討ち取られます。
同じころに首領の張角は病死し、11月には張宝も敗死しました。
ひとまず黄巾の乱を鎮定することに成功した漢王朝ですが、その負ったダメージは深いものでした。
この後も各地で反乱が頻発し、その都度対応に追われる羽目になります。
また、黄巾賊も頭目たちは殺されたとはいえ、完全に殲滅されたわけではありません。
各地に残党が残っており、しかも油断ならない勢力に成長しているものもいたのです。
やがて、それらの黄巾賊残党を吸収して自分の勢力拡大に利用したのが曹操です。
この黄巾の乱で漢は致命的なダメージを負いました。
以後、各地方の独立的傾向が強くなり、やがて群雄割拠の様相を呈してきます。
ちなみに、曹操や劉備は黄巾の乱の討伐で名を挙げ、歴史の表舞台に登場してきました。
孫権の父・孫堅も同様です。
この黄巾の乱は、腐敗した漢王朝の土台を揺るがし、新しい時代の幕開けとなりました。
三国志の幕が開いたのです。
189年 董卓の登場
黄巾賊が漢王朝に深いダメージを負わせたのだとすれば、漢王朝に引導を渡したのが董卓だといえるでしょう。
董卓の登場を語るうえで、少し寄り道をしなければなりません。
董卓が中央政界に登場する経緯についてまず知っておかなければならないからです。
登場人物は何進、袁紹、そして宦官たちです。
何進は大将軍をつとめる男ですが、この地位を手に入れたのは自分の才覚ではありません。
何進の姉が霊帝の寵愛を受け、産んだ男子が皇帝として即位することになり(少帝)、いよいよその勢力を盛んにすることになりました。
何進は軍隊の力をもって宦官たちを脅し、宮廷での権力を一身に集めようと画策します。
何進の部下であった袁紹も四方の豪族を招請し、それらの軍をもって宦官の力を抑えつけようと動き出し、その求めに応じて上京を開始したのが、西涼の軍閥であった董卓です。
何進らの企みを知った宦官たちは攻撃に転じ、即座に何進を殺害します。
これに怒った袁紹は宮中に兵を進め、宦官たちを殺害するという実力行使にでました。
宮中は大混乱に陥り、多数の宦官が殺害され、そのうえ、少帝は混乱を避け命からがら洛陽を脱出し、近くまで進軍していた董卓軍に保護されるという事態になってしまいました。
これで董卓は天子を引き連れ堂々と洛陽に入城する次第となったのです。
洛陽に入城した董卓は、自軍の力を背景に、中央政界を壟断しはじめます。
しかも少帝を廃して弘農王とし、陳留王を立てて皇帝とします(献帝)。
地方の一軍閥の長が好き勝手に皇帝を取り換えるという不遜の沙汰を誰も止めることができませんでした。
漢王朝の衰退を如実に物語るエピソードだと思います。
しかも、後日、弘農王とその母・何太后は董卓に殺されました。
世論は日々、反董卓で盛り上がっていき、ついに各地で董卓打倒を旗印に群雄が決起します。
袁紹を盟主とした連合軍は洛陽目指して進撃し、董卓は献帝を長安に遷し、自身はしばらく洛陽にて反董卓軍と戦います。
しかし、孫権の父・孫堅にしばしば破られ、最終的に洛陽を捨て長安に退却します。
以後は長安にて勢力を蓄え再起を図りますが、王允の計略により部下の呂布の裏切りにあい、命を落としました。
一方の連合軍の方も董卓が長安へ逃れるとまったく追撃の意思がなく、それぞれ自分の国に帰還し、勢力拡大に専念しだします。
董卓の登場で重要なポイントは、黄巾の乱で深刻なダメージを負った漢王朝を完膚なきまでに破壊し、群雄割拠の状況を招来して戦国時代を出現させたことです。
以後、各地の群雄は覇権をめざして血で血を洗う戦いの時代に突入するのです。
その中から台頭してくるのが、曹操、袁紹、孫権の兄・孫策などです。
劉備は高い声望を獲得していきますが、実際の勢力としてはまだまだ弱小です。
やはり目覚ましいのは曹操の勢力拡大です。
曹操の台頭を中心に見ていくことにしましょう。
196年 曹操、献帝を迎え入れる
董卓討伐軍が瓦解したあと、各地の群雄たちはそれぞれの勢力拡大をめざしてうごめきはじめます。
曹操もそういった群雄の一人です。
曹操はまず、袁紹に東郡太守として上表してもらい、東武陽(山東省朝城県)に落ち着きます。
そのころ、長安に逃れた董卓は部下の呂布に殺され、その呂布は董卓の部下である李榷、郭汜らに破られ、長安を脱出します。
さらに李榷、郭汜両者の内戦が始まり、長安は大混乱に陥りました。
そんな情勢のさなか、曹操は青州の黄巾賊の残党に東武陽を襲われます。
残党といっても、野盗のレベルではありません。
老若男女を含む100万もの大群衆が押し寄せてきたのです。
まさに一大事ですが、鮑信の命を懸けての激戦によりかろうじて退けることに成功しました。
さらにこの事件で重要なのは、冬の到来を恐れたのか、この黄巾賊の群衆が保護を求めて曹操に降ったことです。
陳寿の「三国志」によれば、「男女百余万口」とあります。
これら青州の黄巾賊(青州兵と呼ばれます)を自軍に吸収した曹操は、勢力拡大のための貴重な人的資本を手に入れました。
曹操の快進撃はここから始まるのです。
青州兵を味方につけた翌年(193年)、曹操は父・曹嵩を徐州で野盗のために失います。
徐州の牧・陶謙に非があると見た曹操は、即座に大軍を派遣して徐州を屠る暴挙に出ます。
これはあきらかにやりすぎで、当時の世論としても曹操を非難する声が大きかったようです。
その後、呂布や袁術などの勢力と戦いを繰り広げながら勢力を拡大していき、ついに196年に献帝を迎え入れることに成功します。
長安が混乱に陥ったため、脱出した献帝を曹操が保護したのです。
これは画期的なことでした。
いくら権威を失ったとはいえ、皇帝は皇帝です。
漢帝国の皇帝を手中に収めれば、曹操の戦いの大義名分は立つのです。
呂布や袁術を滅ぼした曹操に、最大の敵となって立ちはだかったのが、袁紹です。
いまや華北は袁紹と曹操との二大勢力に分割されています。
両者の激突は必至でした。
200年、曹操と袁紹は官渡で激突し、袁紹の大敗によって、天下の形勢は決まりました。
もはや曹操に太刀打ちできる勢力は皆無となったのです。
208年 赤壁の戦い
官渡の戦いの勝利後、袁紹の残存勢力を徐々に撃滅していった曹操は、華北をほぼ統一し、長江流域を残すのみとなりました。
長江中流域(荊州)には劉表が、下流域には孫権がいます。
曹操のライバル劉備は、いまだ本拠地を確立できず、劉表の客将として荊州にいました。
しかし、もはや天下の形勢は決まったも同然です。
曹操とあくまで敵対する劉備にはもはや打つ手はないように見えます。
その劉備が三顧の礼をもって迎えたのが諸葛亮孔明です。
孔明は劉備に「天下三分の計」を説きます。
北は曹操にくれてやり、長江下流域は孫権に、そして残る荊州と益州(蜀)を劉備の勢力圏とすれば、まだ天下を狙えるというものです。
劉備軍の方針はこれで決まりました。
208年、南下を開始した曹操軍を、孫権・劉備連合軍が赤壁で打ち破ります。
この敗戦で曹操の天下統一は永遠に去りました。
混乱する荊州南部をおさえた劉備は、その後、益州に入り、益州を治めていた劉璋を降伏させ、ついに本拠地を獲得しました。
これで、北の曹操、長江下流域の孫権、益州・荊州の劉備と天下は三分することになります。
219年 漢中王・劉備と関羽の死
その後、劉備は漢水上流に位置する漢中をめぐって曹操と干戈を交えます。
漢中は蜀への入り口であり、ここを押さえられると、蜀の安全保障上、非常に危険だからです。
曹操自ら軍を率いて漢中で劉備と対峙しますが、情勢は劉備に有利に働き、ついに漢中は劉備の有に帰しました。
ここに劉備は漢中王を名乗り、魏王となっていた曹操とあくまで対決することを天下に宣言します。
これに呼応するかのように、荊州を任されていた名将・関羽が北上し、樊城および襄陽を包囲し、曹操をして遷都を議せしめるほどの勢いを見せます。
しかし、ここで孫権が曹操に寝返り、呉の名将・呂蒙が手薄になった荊州南部に襲い掛かります。
関羽は曹操軍と孫権軍の挟み撃ちにあった格好で、ついに麦城で命を落としました。
ここに荊州を勢力圏におさめた孫権は曹操に「臣」と称し、形式上は魏に従属することになりました。
関羽の死の翌年、曹操もこの世を去りました。
三国志の主人公のひとり、曹操が退場したのです。
後継者の曹丕は、もはや形だけとなった献帝から帝位を譲り受け、皇帝となります。
ここに漢帝国は名実ともに滅びました。
220年のことです。
魏帝国を認めない劉備は即座にみずからも即位し、漢帝国を再興します。
本来であれば、簒奪した曹丕を先ず討つのが筋ですが、劉備はどうしても関羽のかたき討ちから離れられませんでした。
劉備は、みずから大軍をひきいて呉に侵攻します。
しかし、呉の名将・陸遜に破られ、白帝城に逃れた劉備はそこで223年に病没します。
立て続けに曹操、劉備と三国志の主人公が退場していきました。
劉備の遺志をつぐのは、諸葛亮孔明です。
孔明の孤独な戦いが始まりました。
234年 五丈原の戦い
劉備亡き後、息子の劉禅が皇帝として即位します。
丞相として蜀の運命を任された孔明は、まず呉との関係強化を図ります。
魏の討伐のためには、呉の協力が不可欠だからです。
また、蜀の南方に軍を進め、後顧の憂いを断ちました。
いよいよ227年、孔明は出師の表を奉って、魏討伐の軍を起こします。
並々ならぬ決意と周到な準備、さらに士気旺盛な蜀軍の侵攻で、天水・南安・安定の三郡が魏から背き、蜀に応じました。
魏の明帝(曹叡)は相当の危機感を抱き、長安に親征し、名将・張郃に命じて蜀に当たらせます。
魏軍と蜀軍は街亭で激突し、蜀軍を率いた馬謖は孔明の命に背き大敗を喫します。
退却を余儀なくされた孔明は、今回の敗戦の責任者であり、愛弟子でもある馬謖を処刑し、みずからも三階級降格し、責任の所在を明らかにしました。
これが「泣いて馬謖を斬る」の出典です。
その後も数度、孔明は北伐を行いますが、なかなか長安まで兵を進めることができません。
五丈原に屯田し、長期戦に備えようとした矢先、234年、孔明は陣中に病没しました。
まとめ
三国志の世界を少しイメージできるようになりましたでしょうか。
興味を持たれた方は、ぜひ小説なり、マンガなり、あるいはゲームでも結構です、三国志の世界に触れていただきたいと思います。
おすすめの図書なども少し紹介しておきます。
どうぞ参考にしてください。
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