満州事変についてわかりやすく簡単に

中国史

日本近代史のうえでもっとも憂鬱な時代、それが満州事変から始まる中国との泥沼の戦争ではないでしょうか。


なぜ日本は中国大陸に進出してしまったのか?


なぜ武力を収める機会が何度もありながら、戦争を継続してしまったのか?


どの地点がポイント・オブ・ノーリターンだったのか?


現在にまで続く両国関係のボトルネック、それが日中戦争でしょう。
今回は大陸進出のきっかけになった満州事変について解説していきます。


満州事変とは何だったのでしょう?


それは絶対に必要なものだったのでしょうか?


満州事変をわかりやすく説明していきたいと思います。

満州事変とは何か

満州事変は、1931年(昭和6年)9月18日に始まり、翌年の2月ごろまで満州(現在の中国東北部)で展開された日本軍の軍事行動です。


この一連の軍事行動によって満州の大部分は日本軍の勢力圏となり、1932年(昭和7年)3月の満州国建国という流れになります。


ここでいろいろと疑問が湧いてくると思います。


なぜ日本軍が満州にいたのか?


当時の中国軍はどういう対応をとったのか?


そもそも、満州とは一体何か?


満州事変を理解するためには、「満州」についての理解が欠かせません。


なぜ「中国東北部」ではなく「満州」なのか?


まずは満州について一瞥していきましょう。

満州とは?

まず、満州は中国ではありません。


現在は中国領ですが、そもそも満州は中国ではなかった。


この点を理解しておきましょう。


満州は「満州族」の故地なのです。


かつて中国大陸全土は、満州族の王朝の統治下にありました。
「清帝国」です。
1894年(明治27年)に日本と戦争したのはこの「清帝国」です。


ちなみに、いわゆるチャイナドレスとして知られる民族衣装は、この満州族の民族衣装です。


皆さんは「辮髪」をご存じでしょうか。
香港映画の時代劇でよく見かける頭頂部だけ長い髪を残して他の部分は剃り上げるあの独特のヘアースタイルです。
この「辮髪」も満州族の文化のひとつです。


つまりもともとは中華文明に属さない異民族なのです。


現在でも中国周辺には中華文明と一線を画す民族国家が多数ありますよね。
モンゴルもそうですし、北朝鮮や韓国、ベトナム、ブータンやわが日本もそうです。


現在の中国領はあくまで武力・軍事力によって中華文明が拡大した結果であって、当時は中国東北部はあくまで「満州」です。


この点を理解しておきましょう。


それでは、満州事変の説明に入る前に背景となる満州の状況と経緯についてさらっと目を通しておきましょう。

満州事変までの経緯

なぜ日本軍が満州にいたか、ここに至るまでの道程を確認しておきましょう。
時系列であらわせばこういう流れになります。

①清帝国の弱体化

②イギリス、フランス、ロシアなどの清帝国への圧迫

③日本、朝鮮の独立をめぐって清帝国と戦う(日清戦争 1894年)

④清帝国、義和団事件をきっかけに列強に宣戦布告(北清事変 1900年)

⑤清帝国、列強連合軍に敗北。賠償金支払い、列国の守備兵を北京に常駐の条件を呑む

⑥ロシア帝国、北清事変のどさくさにまぎれ、満州占領

⑦朝鮮、ロシアに接近し、日本の安全保障が危機にさらされる

⑧日本、ロシアと国運を賭けて戦う(日露戦争 1904年)

⑨日本、ロシアに勝利し、旅順・大連の租借権をゲット。さらに南満州鉄道の権利獲得

⑩辛亥革命(1911年)で清帝国滅亡。革命後の混乱で中国大陸は群雄割拠の戦国時代に突入

⑪満州は軍閥・張作霖の支配下に

⑫国民党の蒋介石、北伐を開始し、南京政府を樹立(1927年)

ここで注目してもらいたいのは、⑨の日露戦争の結果、日本が満州に獲得した権利についてです。


日露戦争は、文字通り、国家の命運を賭けた戦争でした。


戦争に費やした国費は当時の国家予算の数年分、さらに110万もの兵力を投入し、死傷者はおよそ20万人という大きな損害を出しました。


日本にとって未曾有の戦争だったのです。


その代償として得たのが、旅順・大連の租借権、そして満州における鉄道の施設権だったわけです。


金はいいとしても、何十万という日本人の命と引き換えに獲得した土地です。


日本軍が執着するのもわからないではありません。


この旅順・大連と鉄道の防衛のために駐屯したのが、いわゆる関東軍です。


旅順・大連は山海関の東にあります。


そこに駐屯する軍ですから関東軍というわけです。


なぜ軍の駐留が必要かといえば、満州がロシアの占領地だったことを思い出してください。


日露戦争の結果、ロシアの勢力圏は北満州に退き、南満州はどこの国の行政権も及ばない、いわば無法地帯です。


法も警察もありません。


やがて匪賊(盗賊、暴力集団)から身を起こした張作霖が満州の支配者になっていきますが、張作霖とて根は匪賊ですから、満州における法の執行など期待すべくもありません。


そのような状況のなか、満州で鉄道を運営していくには治安維持のための武力が不可欠です。


といっても、関東軍の駐屯兵力は1万2000ほどですから、南満州をカバーすることすら容易ではありません。


関東軍が、現地の実力者である張作霖と共同歩調を取らざるを得ない事情はよくわかります。


しかも、法治というものが期待できない状況では、頻発するトラブルの解決は容易なことではなかったでしょう。


むしろ、解決など不可能だったのではないでしょうか。


関東軍の兵力も限られ、頼みの張作霖もどこまで治安維持に関心があるか知れたものではありません。


しかも、満州には日に日に中国側から、あるいは朝鮮半島から移住者が流れ込んできます。


韓国併合が1910年(明治8年)ですから、朝鮮半島出身者の保護は日本政府が責任を負わなければなりません。


にもかかわらず、幣原外交に代表される日本政府の立場は、各国との協調・不干渉主義です。


マクロな傾向として協調主義は間違っていませんが、無法地帯で四苦八苦する現場の関東軍に、それらの政策はどう映ったでしょうか。


おそらくは、ただの無責任として受け止められたのではないでしょうか。
ここに、関東軍内部で満州問題を一挙に解決しなければならないという空気が支配的になったとしても、決して不思議ではないでしょう。


そして関東軍には、強い使命感と天才的な頭脳をもった軍人がいたのです。


誰あろう石原莞爾です。

満州事変のきっかけ

満州の支配者であった張作霖は、1928年(昭和3年)、北京から奉天へ退却中に関東軍参謀・河本大作によって爆殺されます。


張作霖を始末したあとの満州を関東軍がどうするつもりだったかまったく不明ですが、ともあれ張作霖の息子の張学良が父の軍閥を継ぎました。


父親を殺された張学良が日本に良い感情を持つはずがなく、張学良は蒋介石の国民党に合流します(易幟)。


ここで、中国大陸の情勢に目を転じてみましょう。


蒋介石の国民政府は広東に拠点を置く軍閥のひとつにすぎなかったわけですが、1926年に「北伐」と称して軍を北上させ、中国の統一に着手しました。


当時の中国は、まさに群雄割拠、そこかしこに軍閥が跋扈する戦国時代です。


主な勢力をピックアップしてみましょう。


広東の蒋介石率いる国民党、満州の張作霖、山西省の閻錫山、西安の馮玉祥、武漢の呉佩孚、共産党の毛沢東などがひしめいていました。


1927年には南京・上海を手中におさめた蒋介石は、ここで国民党内部に巣食う共産党勢力の一掃に乗り出します。


いわゆる上海クーデタ(4・21事件)です。


もともと共産党との共闘は、蒋介石の前任者である孫文がソ連の援助を目当てにはじめたもので(第一次国共合作)、共産党員が個人として国民党に入党して公然とスパイ活動を開始するという事態を引き起こしました。


毛沢東もこの期間は国民党のもとで働いていたほどです。


共産党に強い猜疑心をもつ蒋介石は、ここで一気に共産党勢力と国民党左派を切り捨てたのです。


国民党内部の粛清にしばしの時間を費やした後、蒋介石は北伐を再開し、張作霖を打ち破り北京に入城しました。


張作霖が爆殺されたのは、この北京放棄後に奉天に撤退する途中だったのです。


ここに形式上は中国は蒋介石のもとで統一された格好ですが、張学良にしろ、閻錫山にしろ、表面上従っているだけで完全な統一とは程遠い状態です。


早くも1929年には、馮玉祥と広西の李宗仁が手を組んで反蒋介石戦争を起こしています。


蒋介石はこれら反対勢力を駆逐していきますが、内戦状態にある不安定な中国情勢は予断を許しません。
統一的な中央政府が不在の中国のもとで、満州に駐屯する関東軍の不満はいや増しに高まっていったのです。

満州事変の舞台はどこの場所?

満州事変のはじまりである柳条湖事件は奉天(現在の瀋陽)で起こりました。


柳条湖は、現在の瀋陽北駅の近くで、柳条湖街という地名も残っています。


ときは1931年(昭和6年)9月18日夜半です。


満鉄の線路が爆破されるという事件が発生し、それをきっかけに関東軍が軍事行動を起こします。
関東軍は中国軍による破壊行為と断定して(実際は関東軍の自作自演です)、すみやかに軍を動かしました。


以下、満州事変の流れを時系列でまとめてみましょう。


①9月18日午後10時20分ころ、柳条湖で満鉄線路の爆破事件発生(線路自体は破壊されない程度の軽微な爆発)

②爆破現場の近くで夜間演習中だった川島中隊が、移動中に張学良軍が駐屯する北大営から攻撃を受ける

③独立守備歩兵第二大隊の援護もあり、北大営を占拠

④9月19日午前4時30分ごろ、関東軍は奉天城(現在の瀋陽故宮)をほぼ占拠

⑤関東軍、正午ごろに東大営を占拠。奉天のほぼ全域を制圧

⑥同じころ、長春、営口、鳳凰城、安東などの諸都市も関東軍が制圧

⑦9月21日、朝鮮軍司令官の林銑十郎が独断で朝鮮国境を越境、奉天に進撃

⑧若槻内閣の不拡大方針により、ハルピンなどの北満州への関東軍の展開は一旦阻止される

ここまでの展開でまず目に付くのは、関東軍のすばやい展開と、対照的な現地の軍閥・張学良軍のふがいなさでしょう。


当時、27万もの軍を擁するとされた張学良が、なぜここまで関東軍に押しまくられる事態を招いたのでしょうか。


日本軍に対して抵抗を禁ずる命令を張学良が出していたのは事実ですが、不明なのはその理由です。
万が一、日本軍と全面衝突という形になって、自身の勢力基盤である東三省を奪われる事態を怖れたという説があります。


少なくとも、事態がどこまで進むのか、張学良にもわかりかねたというのはあると思います。


さらにもう一つ、注目したいのは日本政府の動きです。


柳条湖事件から刻々と進展する戦況に振り回される印象なのは已むを得ません。


しかし、中央政府の方針が一度決定すれば、現地軍である関東軍もそれを完全に無視することはできなかったようです。
政府がその気になれば、もちろん陸軍省や参謀本部の支持が得られれば、軍のコントロールはまだ可能だったわけです。


しかし、この事件における関東軍の独断専行を追認する形になっていった前例によって、やがて軍の暴走を抑えることができなくなっていくのです。


さて、一旦は収まったかに見えた満州での軍事行動ですが、10月8日には錦州爆撃が始まってしまいます。


均衡が破れた北満州のチチハル、ハルピンなどもつぎつぎと関東軍の制圧下に入り、1932年3月に清帝国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を執政として迎えて「満州国」の建国へと怒涛のようになだれ込んでいくのです。

まとめ

満州事変の流れを説明してきましたが、今回指摘できなかった重要なモメントがあります。


それは満州事変をめぐる列強諸国との関係です。


イギリスやフランス、あるいはアメリカ、そしてソ連などの動向はどうだったのか。
その点についてはまたの機会に紹介したいと思います。


興味がある方は、ぜひ書籍やネットで調べてみるのも面白いかもしれませんよ。

参考文献

緒方貞子 「満州事変 政策の形成過程」 岩波現代文庫 岩波書店
臼井勝美 「満州事変」 中公新書 中央公論新社


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