馬謖とは何者でしょう?
有名な「泣いて馬謖を斬る」の馬謖のことです。
どんな人物だったのか?どんな生涯を送ったのか?なぜ有名な故事成語がうまれたのか?
馬謖という人物をとおして、三国志の世界を深掘りしていきましょう。実在の人物としての馬謖に注目していきます。
まずは、故事成語の由来から説明していきます。
「泣いて馬謖を斬る」とは?
馬謖は三国時代の蜀に仕えた人物です。
蜀の諸葛亮が国運をかけた第一次北伐(西暦228年)において、先陣を任されたのが馬謖でした。
馬謖は孔明の命令に従わず、独断で軍を動かした結果、大敗を喫します。
孔明は馬謖の才能と人柄をことに愛していましたが、命令違反による大敗の責任を問うかたちで、馬謖を泣く泣く処刑したのです。
これが「泣いて馬謖を斬る」の由来です。
馬謖の才能を惜しんだ人々による助命嘆願の運動もありましたが、国家の規律を第一に考える孔明の決意を翻すことはできませんでした。孔明自身も、三階級降格という措置により、この大敗の責任の所在をあきらかにしました。
一連の孔明の措置にはさまざまな批判もあり、馬謖の抜擢や処刑をふくめ、適切な措置であったかどうかは判断の分かれるところですが、私情より公の秩序を優先した孔明の決定は、後世の人々の同情と共感を集めたことは確かです。
馬謖の生涯
孔明に愛された馬謖とはどんな人物だったのでしょう。「正史 三国志」から、彼の生涯を再構成してみましょう。
馬家五人兄弟の一人として生まれる
馬謖は襄陽郡宜城県の人です。現在の湖北省襄陽市に該当します。
ただ、ここが生まれ故郷とは限りません。襄陽郡宜城市は戸籍の編成地、つまり本貫ですから、必ずしもここが出身地とは限らないのです。
馬謖は5人兄弟です。
そのなかでも兄の馬良は秀才かつ聡明として有名であり、馬良の眉毛が白かった特徴から「馬氏五常、白眉最良」(馬家の五人兄弟のうち、白眉がもっともすぐれている)と称賛されました。「白眉」という言葉はここからきています。
馬謖は馬良の弟になりますが、五人兄弟の何番目だったかというのは不明です。
馬良は夷陵の戦い(222年)で36歳で亡くなっています。馬謖は39歳で処刑されましたから、計算すると馬良は馬謖の3歳年上ということになります。
孔明にその才能を愛される
兄の馬良とともに、劉備の陣営に参加した馬謖は、諸葛亮孔明にその才能を高く評価されます。
孔明は馬謖と談論すること昼夜にわたった(「毎引見談論、自晝達夜」蜀書 馬良伝)と伝えられています。
よきアドバイザーとして
馬謖のアドバイザーとしての力量をよく示しているエピソードがあります。
蜀南方の孟獲らの反乱鎮圧におもむく孔明が、馬謖にアドバイスを求めました。
馬謖のアドバイスのポイントはつぎの2つです。
・南方は要害の地であるから、軍事力で屈服させてもすぐに反乱がおきる
・力による支配ではなく、心服させることが長いスパンで見ると望ましい
孔明は馬謖のアドバイスのとおり、孟獲を厳しく処断せず許すことによってその信頼を勝ち取ります。
南方は孔明が生存中は反乱をおこすことはありませんでした。
馬謖の聡明さと、馬謖に対する孔明の深い信頼がうかがわれるエピソードです。
街亭の戦い
228年、孔明は有名な「出師の表」を奉って、魏を打ち破るべく北伐を開始します。
このときの蜀軍の大規模な軍事行動は魏に相当な動揺をあたえたようで、南安・天水・安定の3郡が蜀に下り、事態を重く見た魏の皇帝・曹叡(明帝)は自ら長安に出陣します。
明帝は名将・張郃に命じて蜀軍にあたらせます。まさに一大決戦、重要な局面です。
このとき蜀軍の世論としては、先陣にふさわしいのは経験豊富な猛将・魏延か呉壱か、というのが一般的でした。
当然と言えば当然でしょう。国運を左右する重要な局面だからです。
しかし、孔明はあえて馬謖を抜擢します。馬謖は先陣として街亭で張郃と対峙しますが、ここで決定的な敗北を喫してしまいます。
蜀書・王平伝によれば、馬謖は水路を捨てて山上に布陣し、さらに馬謖の指示命令は煩雑であり(「挙措煩擾」)、軍が円滑に機能していなかったのではないか、と疑われます。
馬謖はあくまで帷幕の人であり、現場で指揮を揮う器ではなかったのです。
このような状態では百戦錬磨の張郃にかなうわけもなく、蜀軍の敗北は必至でした。
この大敗によって北伐は失敗に終わり、蜀軍は退却を余儀なくされました。
あきらかな人選ミスであり、孔明が批判されるのはひとえに馬謖を起用した点にあるのです。
孔明といえども私情から自由になることはできなかったという事実は、わたしたちにとって貴重な教訓となります。人物の評価はきわめて難しいものだということです。
馬謖のエピソード
馬謖のエピソードを史書からいくつかピックアップしましょう。
劉備による馬謖の評価
孔明が馬謖を高く評価していたのはすでに述べました。
では、君主である劉備はどう見ていたのでしょうか。劉備の馬謖の評価はなかなか辛辣です。
馬謖言過其實、不可大用
蜀書・馬良伝
馬謖は言葉が上滑りするたちだから、大きな仕事は任せられない、これが劉備の評価です。
劉備は孔明にもその評価を伝えていましたが、孔明はそれでも馬謖を重用しました。
街亭の敗北を知る我々としては、劉備の慧眼に驚くばかりです。さすがに人を見る目があったというべきでしょう。
街亭の戦いで敗北後、逃亡する
街亭で敗北したあと、馬謖は逃亡を企てています。
馬謖は親友であり蜀の同僚でもある尚朗のもとへ身を寄せ、尚朗も事情を知りながら馬謖をかくまいます。
ことはすぐに露見し、馬謖は処刑され、尚朗もまた免官となってしまいます。
ただ尚朗は数年後には復帰していますので、蜀の世論として尚朗に同情的であったことがわかります。
まとめ
馬謖の生涯を知ることで明らかになるのは、人物評価の難しさです。
馬謖が優れた才能を持っていたことは確かですが、その才能を生かす場所を考えることが非常に重要になってきます。少し前でしたが、「与えられた場所で咲きなさい」という言葉が人口に膾炙したことがありました。
馬謖の事例を見て思うのは、「場所」の重要性です。才能の発揮に必要なのは、適切な土壌です。
どこでもその力を発揮できるほど優れた人間はいません。自分が活躍できる分野を知ること、そしてその分野で活躍させてやること。
この真理を教えてくれるのが馬謖の事例といえましょう。
※馬謖についてもっと知りたい方はこちらがおススメです。↓
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