孔明亡き後の蜀の運命について わかりやすく

三国志

孔明が五丈原に没したあとの蜀の運命についてまとめてみました。


孔明が陣没したのが234年、蜀滅亡が263年ですから、その間29年は存続していたわけです。
どんなドラマがあったのか、見ていきましょう。

魏延と楊儀の衝突(234年)

魏延は征西大将軍かつ南鄭侯であり、劉備の時代から活躍した抜群の経歴で蜀のなかでは諸葛亮につぐ高位にありました。


楊儀もまた長史という高位にあり、蜀軍の事務を一手に引き受けていた能吏です。


この両者は反りが合わず、常に反目しあっていたわけですが、孔明が存命中はかろうじて保たれていた両者の均衡がここにきて一気にやぶれます。


蜀書の魏延伝と楊儀伝を比べてみると、魏延が蜀の人士の支持を得られていない様子がよくわかります。
この両者の衝突は、孔明が陣没した直後の蜀軍退却のときに勃発します。


楊儀・費禕・姜維らは、魏延と連絡せずに退却しようとし、それを察した魏延が先手を打って南下して楊儀らを待ち伏せたのです。


魏延も楊儀も、双方ともお互いを非難した上奏文を成都に送りますが、成都にいる董允や蒋琬らは楊儀に与して魏延を切り捨てる方策にでました。


中央の輿論を味方につけられなかった時点で勝敗は決しました。


魏延軍は士気を完全に喪失し、王平によって撃破され、馬岱の追撃を受けて魏延は斬られました。


結果として楊儀の勝利となりましたが、楊儀も実権を握ることはできず、235年に費禕の上奏によって庶人に落とされ自殺してしまいます。


穿った見方をすれば、魏延も楊儀もともに、その後の蜀の実力者となる蒋琬・費禕にとって邪魔であり、お互いの反目を口実に葬られたと見ることも可能です。


真相は不明ですが、事実として確実なのは、反魏延の輿論を形成したのは蒋琬であり、楊儀を事実上葬ったのは費禕であるということです。
諸葛亮亡きあとの蜀の体制固めは、魏延と楊儀という二人の実力者が退場することから始まるのです。

王平の活躍(244年)

蒋琬は大将軍に昇進し、漢中に駐屯して魏討伐の事務に専心することになりましたが、病気のため漢中を離れたあと(243年)、要害である漢中を任されたのが王平です。


王平は魏延討伐で活躍したあと、順調に官位をあげ、237年には安漢侯にまでなっています。


蒋琬が漢中に駐留するとその事務を補助していますから、蒋琬との結びつきも強固なものだったと考えられます。


王平が漢中の責任者になった翌年(244年)、魏の曹爽が10万もの大軍を率いて漢中に侵攻するという事件がおこりました。


当時、漢中には蜀軍が3万ほどしか駐屯しておらず、漢中ではかなりの動揺があったようですが、王平は適切に対処し、費禕の援軍が成都から到着したことで大事には至りませんでした。


この魏軍の侵攻がどれほど真剣なものだったかは疑わしいところがありますが、ともあれ王平がこの一件でその名声を高めたことは事実です。

蒋琬のもとで(~246年)

諸葛亮亡きあと、蜀の実権を握ったのは蒋琬です。


孔明は漢中から長安を目指しましたが、蒋琬は漢水を通じて東から魏を攻めようと考えたようです。


しかし、蒋琬が漢中に駐屯したのが237年ですが、その後目立った軍事活動は行っておりません。


上記の漢水から魏を攻めるという案も、自身の病気と諸将の反対にあって実現できませんでした。


姜維を使って西涼方面に何度か出兵させた他は、軍を大規模に動かした形跡はありません。


蒋琬の上疏を読むと、ハナから魏討伐などという計画はなく、領土を少しでも蚕食することに重点が置かれているのがわかります。


積極策ではなく、あくまで現状維持と少しの拡大が目的だったと考えるのが妥当です。


蒋琬にその力量があったかどうかは別ですが、少なくとも本人に諸葛亮のような志がなかったことは確かです。
蒋琬は246年に病気で亡くなります。

費禕の死(253年)

蒋琬のあとに実権を握ったのが費禕です。


しかし、費禕が政策を実行できたのはわずか7年に過ぎません。
では、費禕の実績にはどんなものがあるのでしょうか。


費禕も248年には漢中に駐屯し、形式上は魏征伐を目的としますが、はたしてどこまで本気だったのか、疑わしいものです。


251年には早くも成都に帰っていますし、その年の冬には、「都に宰相の位は無い」という占い師の言を受け入れ、漢寿というところに移動するなど、わけのわからないことをしています。


また、姜維にも兵を1万ほどしか与えず、積極策には批判的でした。


蒋琬もそうですが、費禕もまた遠大なビジョンを持つ政治家ではありませんでした。
保守管理を得意とする安定期の人材だったといえそうです。


費禕は253年に、宴席で魏の降将である郭循に刺殺されました。

姜維の孤軍奮闘(252年~)

姜維が蜀に降ったのが228年で、彼は28歳でした。
その後、諸葛亮亡き後、234年には平襄侯になっています。


わずか34歳ですから、いかに彼の才能が高く評価されていたかがわかります。
まさに破格の待遇です。


異例の抜擢に応えようとするかのように、姜維は毎年のように魏に侵入します。


その傾向は、費禕が亡くなったあと、いよいよ強くなります。


以下、姜維の出陣をまとめてみます。

253年 南安を包囲。陳泰が救援に来たため撤退。

254年 隴西に出陣。徐質を斬る。

255年 狄道に出陣。王経に大勝する。

256年 段谷で鄧艾に大敗を喫する。

257年 沈嶺に出陣。司馬望・鄧艾とにらみ合いとなり、決戦せずに撤退。

262年 侯和に出陣。鄧艾に撃破される。


姜維にとって鄧艾は苦手な相手だったようです。
二度も敗北を喫し、そして最後は鄧艾によって蜀そのものが滅ぼされる結末となりました。


また、毎年のように軍を動かし、さしたる戦果を挙げ得ないのであれば、姜維の蜀での立ち位置もあやしくなります。


実際に、262年には、宮中を牛耳る宦官の黄晧が、姜維を降格させ、息のかかった右大将軍の閻宇に軍事の実権を握らせようと画策しています。


そのため、姜維は成都に帰還することはできず(帰れば更迭です)、前線で戦い続けるほかありませんでした。


ただ、黄晧の陰謀があったとはいえ、姜維の軍事行動は必ずしも中央の輿論に支持されたわけではありません。


譙周の「仇国論」にも、繰り返される出兵によって民は疲弊しているため、時機を待つべきであると説いています。


これが中央の輿論だったでしょう。


しかし、姜維は諸葛亮の遺志を継いで、魏を討伐することに拘ることでしか、その地位を保つことができませんでした。


もはや進むこともならず、退くこともならない、そういう地点に追い込まれたといえるでしょう。

蜀の滅亡(263年)

一方、魏では鍾会と鄧艾が着々と蜀侵略の準備を進めていました。


ついに263年、魏は大軍を擁して蜀に侵攻を開始しました。


鍾会と鄧艾は二手に分かれて侵入し、姜維の上奏は黄晧によって握りつぶされたため、対応が遅れることになりました。


姜維は鄧艾と戦いますが再び破られ、廖化や張翼らとともに要害の剣閣に立てこもります。


鍾会がこの剣閣を攻めあぐねている間に、鄧艾は迂回して綿竹に進出し、あっという間に成都に迫りました。


劉禅は譙周の意見に従い、鄧艾に降伏します。
ここに、劉備が皇帝に即位して以来、43年にわたる蜀漢の歴史に幕を下ろしたのです。

まとめ

蜀を滅ぼした魏も、このあとすぐに司馬氏の晋にとってかわられ、この晋が呉を滅ぼして中国を統一します。
しかし、晋帝国も、八王の乱に始まる混乱によって、異民族が入り乱れる未曾有の戦乱へと突き進んでいきます。
三国時代と、それに続く五胡十六国時代はきわめて興味深いダイナミックな時代といえます。
興味を持った方は、ぜひ書籍などで確認してください。

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