ソクラテスとソフィストが真正面からぶつかる対話篇
プラトンの対話篇『プロタゴラス(Protagoras)』は、古代ギリシア思想の核心にある問い――「徳(アレテー)は教えられるのか」を正面から扱った作品です。
本作は、ソクラテスと当時もっとも名声の高かったソフィスト、プロタゴラスとの直接対決を描いており、哲学と弁論術、真理探究と教育ビジネスの緊張関係が、これ以上ないほど鮮明に浮かび上がります。
英語圏の研究では本作はしばしば、
Plato’s most sophisticated engagement with sophistic moral education
と評されます。つまり、ソフィスト批判のための単純な戯画ではなく、ソフィストの主張を最大限フェアに提示した上での思想的格闘が描かれている、という評価です。
登場人物――思想の立場がそのまま人格になる舞台
物語の中心にいるのは、もちろんソクラテスとプロタゴラスです。
ソクラテスは、いつものように「自分は無知である」という立場から、問いを投げ続ける人物として登場します。一方のプロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」という有名な命題で知られる相対主義的思想家であり、徳を教える専門家として高額な報酬を得る教育者です。
周囲には、ヒッピアスやプロディコスといった他のソフィストたち、そして若きアテナイの貴族ヒッポクラテスが登場します。ヒッポクラテスは、プロタゴラスに弟子入りしようとする青年であり、「徳は本当に教わる価値のあるものなのか」という問いを、読者の代理として体現しています。

議論のテーマ――徳は知識なのか、性格なのか
対話の出発点は、きわめて素朴です。
ソクラテスはプロタゴラスにこう問いかけます。「あなたは徳を教えられると言うが、そもそも徳とは何なのか」。
プロタゴラスは、徳とは政治的・社会的生活に不可欠な能力であり、市民として生きるための判断力・節度・正義感の総体だと答えます。そしてそれは、教育と訓練によって身につくと主張します。
ここで重要なのは、プロタゴラスが徳を「専門的技術(テクネー)」として理解している点です。彼は徳を「実践的知恵(practical wisdom)」として捉えており、単なる道徳的感情ではなく、社会で成功するための能力だと考えているとされます。
議論の展開①――神話による説得というプロタゴラスの戦略
プロタゴラスは、自説を説明するために神話を語ります。これはソフィストらしい修辞的手法ですが、同時に非常に洗練された思想表現でもあります。
神話によれば、人間は自然状態では生き延びる力を持たなかったため、ゼウスはすべての人間に「正義」と「節度」を分け与えました。これらは一部の専門家だけでなく、全員がある程度は持っていなければ社会が成り立たない徳だ、というのがプロタゴラスの主張です。
この神話は、「徳が普遍的であり、教育可能である」ことを示す比喩です。英語圏の研究では、この点がしばしば強調されます。プロタゴラスは、徳の教育をエリート主義ではなく、市民社会の前提条件として位置づけているのです。
議論の展開②――ソクラテスの逆襲と「徳の統一性」
ここから議論は、ソクラテスらしい精密な分析へと移ります。
彼は、勇気・節度・正義・知恵といった徳が、本当に別々のものなのかを問い直します。
ソクラテスは、徳が互いに深く結びついており、最終的には知識に還元できるのではないかと示唆します。特に有名なのが、「誰も自ら進んで悪をなすことはない」という命題です。人が悪い行為をするのは、それが悪だと本当に理解していないからだ、という主張です。
この点について、英語圏では「intellectualism(知性主義)」として整理されます。徳とは感情や性格ではなく、正しい判断を可能にする知の在り方だ、という考えです。
議論の展開③――快楽計算と道徳の合理化
議論の終盤でソクラテスは、さらに踏み込んだ議論を展開します。
快楽と苦痛を数量的に比較し、長期的により大きな善を選び取る能力こそが徳である、という考えです。これはしばしば「快楽計算(hedonic calculus)」と呼ばれ、後の功利主義を先取りする発想としても注目されます。
重要なのは、ここでソクラテスが道徳を感情から切り離し、理性的判断の問題として再構成している点です。プロタゴラスの実践的教育論に対し、ソクラテスはより抽象的で哲学的な徳の定義を提示します。
結論――勝者なき対話が残したもの
『プロタゴラス』の最大の特徴は、明確な勝敗がつかないことです。
最終的に、徳が教えられるのかどうかについて、決定的な結論は示されません。むしろ、当初は「教えられる」と主張していたプロタゴラスが揺らぎ、逆に懐疑的だったソクラテスが「知としての徳」という方向に傾いていくという、皮肉な展開が描かれます。
英語圏の研究では、この結末はしばしば「aporetic(行き詰まり的)」と評価されます。しかしそれは失敗ではありません。プラトンはここで、教育・道徳・知識の関係がいかに複雑で、単純な答えを拒むかを示しているのです。
『プロタゴラス』が現代に問いかけるもの
『プロタゴラス』は、現代の教育論やビジネス研修、リーダーシップ論にも直結します。
倫理はスキルとして教えられるのか。人格はトレーニング可能なのか。それとも、知的理解なしに徳は成立しないのか。
この対話篇が2500年以上読み継がれている理由は、ここにあります。
いつものことですが、プラトンは結論を押しつけません。ただ、考え続けるための、極めて質の高い問いを私たちに残しているのです。


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