仏教についてわかりやすく簡単に説明します

哲学

日本人は仏教徒と言われます。

しかし、日々の生活の中で、自分自身が仏教徒であると自覚する瞬間がどれだけあるでしょうか?


せいぜいお葬式に参列するときに、仏教について意識するくらいではないでしょうか。


仏教とは、そもそも何でしょう?


なぜ、僧服の人々がいて、妙なお経を唱え、戒名やお布施代として大金を遺族からもらっていくのでしょう。
なぜ、現代であんなコスプレをしなければいけないのでしょうか。


いろいろな疑問が湧いてきますよね


不思議な仏教について解説していきます。
できるだけわかりやすく説明していきますよ。

この記事を読めば次のことがわかります。
・仏教の教え
・仏教の歴史

仏教とは何か?

釈迦について


まずは根本的なところから始めましょう。


仏教とはなんでしょう?


仏教とは、古代インドの釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が説いた教えのことです。


ただし、上記の定義はとりあえずのものです。


仏教の歴史を見ていけば、上記の定義では不十分だということがわかってきます。


とりあえず話を進めるため、釈迦の教えということにします。


では、どんな教えなのでしょう?


人生は苦であり、この苦から抜け出ること、即ち解脱すること、そのメソッドを編み出したのが釈迦です。


ちなみに、「釈迦」というのは、「釈迦牟尼」の略で、意味は「シャカ族の聖者」ということです。


人生は苦である、とさきほど書きました。


しかし、人生は辛くない苦しくない、むしろ楽しいよ、と思っている方も多いと思います。
大変結構なことで、人生は楽しいに越したことはありません。


釈迦は人生は苦しいものだ、と考えました。


釈迦はシャカ族の王子だったといいますから、周りにはさまざまな知恵者、賢者もいたでしょう。


社会を俯瞰する立場の人々に取り囲まれていたのですから、釈迦は最高の教育を受けて育ったと考えて差し支えないのです。


問題は、釈迦がこれらの権威を一切信じなかったということです。


だからこそ、すべてを捨てて修行の道を選んだのです。


自分を救えるのは自分しかいない道を歩んだのです。


紆余曲折を経て、釈迦はブッダガヤーで悟りを開きます。


人生が苦であること、そしてその克服の方法をはっきりとつかんだのです。


「苦」を自覚し、それをクリアーするゲーム、それが仏教です。


ここで「苦」とは、サンスクリット語で duhkha といって、「苦」という言葉では把握しきれない広い意味を持っています。


現代日本語では、欲求不満といったほうが原義に近いかもしれません。


欲求不満なら、多くの人に共感してもらえるのではないでしょうか。


有名な四諦と八正道についても説明しておきましょう。

四諦とは


四諦とは、四つの真理という意味です。


つぎの四つです。
苦諦  (人生は苦であるという初期設定の認識)
集諦  (苦のソースコードが欲望という言語で記述されるという認識)
滅諦  (欲望を書き換えることで、苦の展開を変えられるという認識)
道諦  (そのためのメソッド)


こういう構成になっています。


そして、最後の道諦の内容が、八正道というわけです。


しかし、四諦といい、八正道といい、もともとはサンスクリット語を中国語に翻訳した言葉ですが、いかんせん古臭い。


しかも、「諦」という言葉は、現代日本語と互換性がありません。


これは大きな問題だと思います。


仏典は、あるいは仏教語は日本人にとってなじみの少ない言語で記述されているのです。


なにやら高尚な近づきにくい感じがぬぐえません。


現代の僧侶は、この何となく高尚なイメージの上にあぐらをかいてビジネスしていると言えないこともない。


そこで、八正道について、現代日本語で簡単に説明してみたいと思います。


そろそろ、仏教を古代中国語から解放してあげましょう。


例えば、八正道は八つの正しい道ということですが、「正しい」という言葉がそもそも問題なのです。


「正しい」という以上、「不正」を言外に含めるからです。


二項対立として把握するのは、まさに「正しい」理解ではありません。


むしろ「適切な」や、「マッチする」ぐらいの意味でのぞむほうがいいのです。


「八正道」などと言われても、ああそう、という感想しか湧いてこないのではないでしょうか。


人々に聞かれない言葉など無意味です。


少しでも耳を傾けてもらえるよう言葉を変える工夫があってしかるべきでしょう。

八正道とは


肝心の「八正道」に戻りましょう。
次の八つです。


正見(現実を静止画像として把握すること。思想や専門用語を使うのではなく、現実そのものとして見ること。)
正思惟(事態に忠実であること。もしあなたが病気なら、すべきことはただ一つ。それは病気を治すこと。そこに迷いは存在しない。)
正語(ウソをつかないこと。そうなると、人は沈黙するしかない。)
正業(正しく行為すること。正思惟したことを迷わず実行すること)
正命(他者を傷つけることなく、自らの生計をたてること。)
正精進(その時その時を真剣に生きること。浮かんでは消える思いつきに左右されないこと)
正念(マインドフルネス状態のこととされる)
正定(あるべき瞑想の状態、あるいは正しい集中力の使用。)


内容は思い切って訳しました。
ひとつの参考として見てください。

ちなみに、ブッダガヤーはナイランジャラー川沿いにある町で、現在は観光地としてにぎわっています。
日本の各宗派が建てた印度山日本寺もあります。
興味がある方は、ぜひ一度、現地を訪れてみてはいかがでしょう。

仏教の二大宗派、大乗と小乗


釈迦がブッダガヤーで悟りを開き、布教を開始したのはサールナートという町です。


現在のワーラーナシー(ベナレス)の近くに位置しており、仏教の4大聖地の一つとして観光客を集めています。


ちなみに4大聖地とは、釈迦が生まれたルンビニー、悟りの地ブッダガヤー、宣教の地サールナート、そして入滅の地クシーナガルの4つです。


さて、布教を開始して徐々に信者を獲得し、教団も大きくなってくると、さまざまな問題に逢着するものです。


釈迦ひとりのときには存在しなかった問題にも対処を迫られるようになります。


まず、仏教団体は男性信者だけではありません。


女性信者も多くなってきます。


そうなれば発生する問題は火を見るより明らかですよね。


男と女の問題です。


これには釈迦も頭を悩ましたようで、仏典にもその手のエピソードが紹介されています。


また、信者が多くなればなるほど、団体を組織化する必要に迫られます。


釈迦を頂点とした階層秩序が成立してきます。


そうなると持ち上がる問題が、序列の奪い合いです。


世俗から逃れ、「悟り」を得るのが目的の仏教なのに教団内ではもっとも世俗的な争いが繰り広げられるわけです。


争いといっても、一応は仏教教団内での話ですから、争いの形は教義をめぐってのものになるでしょう。


いかに釈迦の教えを深く理解しているかの戦いになるのです。


まさに他者を凌ごうという欲望の塊、悟りとはまったく縁のない世界です。


ですが、残念ながら人間とはそういうものです。


聖者でいられるのは、たった一人でいるときだけ、人と関わりを持ち出すととても聖者ではいられなくなる宿命なのです。


釈迦入滅後、およそ100年が経過したころ、教団はついに分裂してしまいます。


保守派の「上座部」と、進歩的な「大衆部」に分かれたのです(根本分裂)。


分裂の原因は「戒律」つまり教団内のルールの解釈を争ってのものと伝えられています。


どこでも同じです。
既得権益を守ろうとする者と、既得権益に与れない者との争いです。


この「上座部」は、その後さらに分裂していきますが、その中の一派である分別上座部がスリランカや東南アジアに勢力圏を広げていき、現在までその教えを伝えています。


もう一方の「大衆部」のほうですが、こちらも分裂を繰り返し、やがてこの中から大乗仏教の運動が展開されてきたと考えられています。


ちなみに「大乗」「小乗」という名称は、大乗仏教側のタームであって、現在では「大乗仏教」というのはそのままでもいいでしょうが、「小乗」というタームは使われなくなってきました。


「小乗」というのは「小さな乗り物」という意味で、選ばれた人々、つまり出家した僧侶しか悟れないということを指します。


大乗仏教側から見た名称なのです。


「大乗」は「大きな乗り物」、つまり多くの人々を救う、それが大乗の理念だからです。


現在では「小乗」とは呼ばず、「上座部仏教」とか「テーラワーダ仏教」と呼ぶことが多いです。

まとめ

今回は仏教のさわり、という感じでした。

これから、仏教のさまざまな側面を紹介していきます。

現代日本における仏教とお葬式の関係にも言及していきます。

おすすめ図書

仏教関係のおススメ本を紹介しておきます。

教養としての仏教入門 身近な17キーワードから学ぶ (幻冬舎新書)

新品価格
¥907から
(2019/9/4 21:42時点)

コメント

タイトルとURLをコピーしました