教養こそが最大の武器である エピクテトスから学ぶ

哲学

現代社会では、教養よりスキルが重視される傾向があります。


どんな能力を持ち、どんな問題を解決できるのか。
いま求められているのは、そんな実務の能力です。
有体に言えば、金を稼ぐ能力のことです。


誤解のないように確認しておきますが、金を稼ぐのは悪いことではありません。


むしろ望ましいことだ。


私もあなたも金が欲しいと思っているに違いないのです。
現代は、まさに実務の時代といっていいでしょう。


そんな環境の中で、教養をうんぬんするのは時代錯誤も甚だしいと思われるかもしれません。


しかし、そうではありません。


むしろ必要なのは教養なのです。
違う、と反論したくなるなら、それはおそらく教養という言葉の意味が違っているからです。


では、教養というのはどういう意味なのでしょう。
この小さな探求の旅はここから始めましょう。

教養とは何か

教養は物知りという意味ではありません。


教養は武器なのです。
研ぎ澄ますことで、人を傷つけもし、時には命さえ奪う。


ただし、他人を傷つけるのは教養の本来の姿ではありません。


教養の本来の目的は、自分の身を守る防具なのです。


何から守るのか。


心無い他者から、残酷な世界から、そして暴走しがちな自分自身から。
つまり、教養とはコントロールの術のことです。


何をコントロールしようというのか?
コントロールの対象は私たち自身です。


ではどうやってコントロールするのか?


言葉によってです。
私たち人間は言葉の動物です。
私たちを救うのも殺すのも言葉なのです。
私たちの世界は言葉で織られています。


そのことに自覚的であるのが教養ということです。
世界にフィットする言葉こそ、私たちに必要なのです。
では、どんな言葉が価値があるのでしょう。


私たちは毎日、膨大な言葉が生み出されているのを目にしています。
それらの多くは、明日にはもう価値がなくなってしまうでしょう。


所詮、一瞬の命です。


だが、長い時間を生き抜いてきた言葉たちがあります。
私たちはそれを古典として尊重してきました。


信じられないほど多くの人によって消費されながらも、けっして歴史の闇に消え失せなかった言葉、それこそが本物の言葉なのです。
今回はエピクテトスに焦点を合わせて紹介していきます。

エピクテトスの言葉

エピクテトスは1世紀から2世紀にかけて活躍した哲学者です。


奴隷として現在のトルコに生まれた以外、その詳細はわかりません。
著作も残していません。
ただ、彼の弟子が言行録を残しているため、私たちはエピクテトスの思想について知ることができます。


エピクテトスは、ストイシズムという哲学の系統に分類されます。
ストイックの語源になった言葉です。


さっそく彼の教養についての言葉を聞きましょう。


彼は言います。
「自由な者たちだけが教養を持ちうるのではない。むしろ、教養があるものこそが自由なのだ」


教養はぜいたく品ではありません。
エピクテトスが奴隷であったことを思い起こせばそのことはわかります。


エピクテトスの言葉は、どんな境遇であれ、私たちは自由になれることを示しています。
自由とは何か。


「自由とは、自身が望むように生きること」


それは無理だ、という声が聞こえてきそうです。
誰もが我慢に我慢を重ねて、歯を食いしばって生きている。
誰も自由ではありえない。


そんな反論が寄せられそうです。


そんな反論に対しては、奴隷として生きた経験から、エピクテトスはこのように問うのではないでしょうか。


「自由でないとすれば、あなたは主人を持っていることになる」


そうだ、仕事という主人が、お金という主人が、しがらみという主人が。
だが、主人をもたない世界などありうるのでしょうか。


エピクテトスは答えるでしょう。
だからこそ、見極めることが大切なのだ、自分と世界の限界を。
それは、どういうことなのでしょうか。

自分と世界の限界を見極める

つまり、私たちがコントロールできるものと、そうでないものとを区別することです。


前者に対してはいやが上にも細心に対処しなければならない。
後者に対しては、所詮、私たちにはどうにもならないことだ、大胆にやれ。


それがエピクテトスの答えです。
エピクテトスの哲学の神髄は、ここにあります。


自分がコントロールできるものとできないものとをはっきりと認識すること。
そして、後者について思い煩うことをやめ、前者にその全力を傾注すること。
自分の限界を知ったときにこそ、人は自由になるのです。

再び教養とは

では、最初の問題に立ちもどりましょう。


教養とは何か。


あなたが何をしようと、どこへ行こうと、どんな厳しい環境で呻吟しようと、つねにある種の選択が待ち構えている、そのことを知ることです。


それは、あなたをさらに奴隷にする道か、あるいはあなたを自由にする道か、どちらかに通じています。
エピクテトスは、若いころは奴隷でした。


彼の哲学は、その辛酸をなめた経験から生まれたものです。


「己自身を知れ」この言葉をエピクテトスほど深く心に刻んだ人は少ないのではないでしょうか。


誰もが名言として頷きながら通り過ぎますが、エピクテトスは人生の指針として自身のものとしようと努力しました。


エピクテトスの言葉は、いま苦しんでいる人にこそ、よく理解され、そのこころに届くでしょう。
なぜなら彼も同じく苦しんだからです。
そして教養という言葉が、有閑階級のなぐさみものでないことを発見するのも現代のエピクテトスたちでしょう。

参考文献

Epictetus “Discourses, Fragments, Handbook” OXFORD WORLD’S CLASSICS

Discourses, Fragments, Handbook (Oxford World's Classics)
Discourses, Fragments, Handbook (Oxford World's Classics)

コメント

タイトルとURLをコピーしました