漢文の入門書としてだけでなく、中国史に関心を持つ人々に愛読されてきたのが十八史略です。
簡潔明瞭な名文で、これを読みこなせれば漢文は十分ではないか、といいたくなります。
また、読み物としても非常に面白いのが本作です。
今回は十八史略のエッセンスを抽出してご紹介します。
十八史略とは
十八史略とは、十八もの歴史書を略したもの、つまりダイジェスト版です。
では十八の歴史書とは何でしょう。
中国史においては、歴代さまざまな王朝が存在し、王朝が交代するたびに新王朝は前の王朝の歴史を編纂するという習慣があったのです。
この形式の先鞭をつけたのは司馬遷で、司馬遷が生きた前漢以前までの王朝と様々な人物の伝記をまとめたのが有名な「史記」です。
その後、各王朝はこの形式を受け継ぎ、班固の「漢書」から張廷玉の「明史」まで、現在のところ二十四史が存在します。
このうち、司馬遷の「史記」から欧陽脩の「新五代史」までが十八史であり、これらをまとめたのが十八史略というわけです。
これらの史書をすべて読み通すのは並大抵のことではありません。
専門家でもなかなか難しいでしょう。
これらの史書から有名な部分を集めたのが十八史略ですから、これを読むことで、中国史の南宋までのあらましが理解できるという優れものなのです。
日本でも昔から入門書的な位置づけで広く読まれていたようです。
実際、専門家でなければ、これを読んでいれば漢文の史書は十分という気もします。
それでは、この十八史略の著者について次に見ていきます。
著者の曾先之について
著者の曾先之は、南宋の時代に生きた人物です。
じつは本場の中国ではそれほど有名な人物ではないようです。
彼の主著である十八史略も、一種のダイジェストに過ぎないとして尊重されなかったようです。
むしろよく読まれたのは日本においてです。
正史十八史のダイジェストというだけでも貴重なものです。
しかも、文章は読みやすく、漢文を学ぶ上で最適なテキストといえるでしょう。
1265年に進士になったあと、しばらくは広東省や湖南省で役人勤めをし、南宋滅亡後は元王朝に出仕せず引退し、92歳の長寿を全うしたとされています。
十八史略に登場する故事成語とエピソード
正史十八史を凝縮したのが十八史略です。
つまり、この本のなかには中国史のエッセンスがたっぷり含まれているというわけです。
正史をすべて読むのは膨大なエネルギーと時間を必要とします。
しかし、十八史略を読むことで、その時間とエネルギーの節約となるのです。
その中から、人口に膾炙している故事成語やエピソードをご紹介しましょう。
なお、原文は竹内弘行「十八史略」から引用したことをお断りしておきます。
酒池肉林
これは殷の最後の王、紂王のエピソードです。
紂王は夏の桀王とともに、悪王の代名詞としてしばしば言及されてきました。
酒で池をつくり、肉を樹々にぶら下げて酒宴に興じ、政治を顧みない背徳の王として描かれます。
原文を見てみましょう。
「以酒為池、県肉為林」
紂王の乱暴狼藉はエスカレートするばかりで、兄の微子は殷を去り、賢者の比干は諫めて殺され、箕子は狂人になったふりをして奴隷となり、命だけは助かりました。
やがて諸侯の信頼を失っていった紂王は周の武王に滅ぼされることになります。
実際の紂王がこのような悪王だったかどうかは、実は議論の分かれるところです。
十八史略が下敷きにしたであろう「史記」でも「材力過人」とあり、きわめてすぐれた頭脳と肉体を備えた王であったことがほのめかされています。
真実はわかりませんが、確かなことが一つあります。
それは、殷を滅ぼした周によって紂王が悪の汚名を着せられたため、それが事実として流布したことです。
反論する史料がなければ、敗者は永遠に汚名に甘んじなければなりません。
歴史は勝者がつくるものだからです。
臥薪嘗胆
これも有名な言葉です。
意味は、目的達成のために現在の苦難を耐え忍ぶことです。
この言葉が生まれた背景は、春秋時代の長江下流域にある「呉」と「越」の長年にわたるライバル関係にあります。
「呉」は現在の南京近辺、「越」は杭州あたり、まさに隣国です。
そして、隣国同士は仲が悪いと相場が決まっています。
呉王・夫差
まずは呉のターンです。
闔廬王のとき、呉は越に侵攻し、王はその時のキズがもとで死んでしまいます。
代わりに息子の夫差が即位しました。
夫差は父の仇を討つために、復讐心を燃えたたすべくいつも薪の上に寝て、さらに出入りする人に「おまえの父を殺したのは越人だということを忘れるな」と言わせたといいます。
これほど自分を苦しめなければ復讐心も薄らいでしまうというのは興味深いことです。
その甲斐あって夫差は越王句践を破り(BC494年)、積年の恨みを晴らしました。
会稽山に追いつめられた句践は、妻を妾として献上し、臣下となることで一命をとりとめます。
呉の名臣・伍子胥は繰り返し句践を斬ることを勧めましたが、夫差は聞き入れませんでした。
越王・句践
今度は越のターンです。
句践は肝(動物の肝臓でしょうか)を自分の部屋に吊るし、ときおりそれを嘗めることで、敗戦の屈辱を忘れないようにしたのです。
句践は、名臣・范蠡の助けを得て、呉の伍子胥を讒言によって失脚させて夫差を孤立させます。
しかし、浮かれる夫差は句践の胸中に気づくはずもなく、その隙に句践は着々と国力を充実させていきます。
10年の雌伏ののち、ついに越は呉に侵攻します。
敗北した夫差は講和を望みますが、范蠡の意見に従い句践は受け入れません。
絶望した夫差は自殺し、ここに長年にわたる両国の争いに決着がついたのです。
夫差と句践、この両者が復讐を遂げるために自らに課したルール、それが「臥薪嘗胆」です。
薪に臥し、肝を嘗める。
こういった苦行を日常的に自分に適用しなければ、復讐さえ貫徹できないほど人間は弱いものなのです。
あるいは、怒りや恨みという感情は長続きしないものだともいえます。
もし、何かを成し遂げたいと願うなら、まずはルールをつくってそれに従うことから始めた方がいいのかもしれません。
復讐心でさえ持続できないのですから、他は推して知るべしでしょう。
龐涓此の樹の下に死せん
登場人物は二人、孫臏と龐涓です。
二人は同門で学んだこともある友人同士でした。
先に出世したのは龐涓です。
魏の将軍として采配を振るい、その名声を徐々に高めていきます。
しかし、龐涓は才能において孫臏に及ばないことを知っており、孫臏を陥れて足切りの刑に処し、入れ墨の肉刑まで施し、その政治生命を断とうとします。
その孫臏に救いの手を差し伸べたのが魏の隣国・斉でした。
孫臏をひそかに救い出して斉に連れ帰ったのです。
ここに、軍師として復活した孫臏は、斉軍とともに魏の都まで攻め上ります。
馬陵の戦い
そのとき龐涓は韓を攻めていましたが、斉軍の侵入の報を聞くとすぐさま引き返します。
龐涓を討つために孫臏が考え出したのが、竈を減らす作戦です。
まず、斉軍の兵士に最初は10万の竈を造らせます。
腹が減っては戦はできませんから、兵士とて食事をとらなければなりません。
そのための竈です。
しかし、10万というのはあきらかに全軍をオーバーする量の竈です。
そして、次の日には5万の竈を造らせ、その次の日には2万に減らします。
なぜ、そんなことをするのか?
それは、龐涓に見せるための竈でした。
龐涓は、日に日に減っていく竈を検分して、斉軍の兵士が敵前逃亡していると判断したのです。
龐涓を油断させるための作戦だったのです。
いよいよ魏軍も斉軍に追いついてきました。
場所は馬陵というところです。
道は狭く、伏兵を置くには絶好の場所です。
孫臏は弩(クロスボウのようなもの)を持った兵を配置し、一本の大きな樹の表面を削り、次のように大書しました。
「龐涓死此樹下」
龐涓、この樹の下に死せん。
夜、魏軍が馬陵に到着します。
龐涓が大樹に書かれた文字を読もうとして松明をかがけた刹那、弩の弓が一斉に放たれます。
魏軍は大混乱に陥り、龐涓は自殺しました。
この馬陵の戦いはBC341年のことでした。
「孫臏兵法」
こうして歴史の舞台から退場した龐涓ですが、不思議なことに孫臏もまた歴史上からその姿を消してしまいます。
この孫臏が兵法書「孫子」の著者ではないかと考えられてきましたが、1972年に山東省で「孫臏兵法」が発掘され、長年にわたる疑問が解けたのは有名な話です。
現在では、兵法書「孫子」は孫武が著したものとされています。
鶏鳴狗盗
この言葉も広く知られています。
意味は、つまらない技能をもつ人物のことです。
これは斉の孟嘗君にまつわる故事です。
孟嘗君
孟嘗君というのは、斉王につらなる貴族のひとりで、名前は田文といいます。
この人は食客を多く抱えることで有名で、孟嘗君というのは田文の号です。
そもそも食客というのは、この孟嘗君が私財を費やして毎日ぶらぶらさせているわけで、相当の資力がなければできるものではありません。
そのなかには有為な人材もいれば、まったく何の役にも立たなそうな人材もいて、まさに玉石混交です。
しかし、現代の会社とは違い、即戦力になるかならないかわからない人材でも食客としてタダ飯を食わしてこそ、孟嘗君の大人物としての名声は高まるのです。
秦の昭王に招かれる
その名前を聞きつけた秦の昭王が孟嘗君に会いたいというメッセージを送ります。
しかし、その本心は孟嘗君を殺そうというところにあるのですが、それを知らずに秦までのこのこ出向いたのが運の尽きでした。
昭王の本心を知った孟嘗君は、昭王のお気に入りの寵姫に取り入って解放してもらうよう懇願します。
寵姫の答えは、「見返りとして狐白裘が欲しい」というものでした。
狐白裘というのは、孟嘗君が昭王に献上した狐の皮のコートです。
しかし、もうすでに献上してしまったので手元にありません。
そこで、食客の出番となります。
「鶏鳴」と「狗盗」の活躍
食客のなかには、盗みのプロがいました。
原文では「狗盗」です。
この狗盗のおかげで、献上した狐白裘を宝物庫より盗みだすことに成功し、結果として寵姫に贈ることができました。
約束通り、昭王に口利きしてくれたおかげで孟嘗君たちは逃げることができました。
しかし、一行は国境の函谷関に至ってここで足止めを食らってしまいます。
なぜなら、函谷関が開門するのは鶏が鳴いてからだったのですが、一行が到着したのは夜半だったからです。
このままではいつ追っ手がやってくるかわからない状況です。
このとき、食客のなかに鶏の鳴き声がうまい人物がいました。
つまり「鶏鳴」です。
この人物の「鶏鳴」によって鶏が一斉に鳴きだしたため、函谷関は開かれ、孟嘗君は事なきを得ました。
これが「鶏鳴狗盗」で、意味としては、つまらない取るに足らない能力をもつ人物など、否定的な文脈で語られるのが一般的でしょう。
しかし、そのつまらない技のおかげで孟嘗君は九死に一生を得たわけですから、肯定的に解釈することも可能でしょう。
どんな才能がどんな状況で役に立つか、それはわからないからこそ、養っておく価値があるともいえるのです。
まず隗より始めよ
これも有名な言葉ですね。
何事も身近なところから始める大切さを説いたエピソードともいえるでしょう。
燕と斉
時代は戦国時代、北方の燕の国が舞台です。
BC311年に即位した昭王は、長年にわたり苦しめられてきた隣国の斉に一矢報いたいと心を固めていました。
燕は小国で斉は大国です。
そこで昭王は優れた人材を招こうと家臣の郭隗に相談します。
賢者を招いて国を強くし、斉に一矢報いるにはどうすればよいか。
それに対する返答がこの「まず隗より始めよ」だったのです。
どういう意味でしょう。
郭隗の主張
郭隗は次のようなたとえ話で昭王を説得します。
むかし、名馬を求めた君主がいて、家臣に千金を与え名馬を探させました。
しかし、その家臣は、生きている馬ではなく、死んだ馬の骨を五百金で購入してきたのです。
怒った君主は家臣を難詰します。
それに対して家臣はこう答えます。
この話を聞いた者は、死んだ馬ですら五百金で買う君主なら、生きた馬ならもっと高く買ってくれるにちがいないと考えるでしょう。
いまに全国から名馬が殺到しますよ。
このように、賢者を求めようと思うなら、まずこの郭隗を厚遇することから始めてください。
郭隗以上の人材がすぐに王のもとにやってくるでしょう。
昭王は郭隗の意見を採用し、郭隗に新しい屋敷を建ててやり、師として尊重しました。
この話を聞きつけた全国の腕に覚えのある猛者たちや知恵者は、燕国に殺到します。
楽毅の仕官
その中に名将・楽毅がいました。
楽毅を得た昭王は燕の強国化に成功し、燕軍を率いた楽毅は斉を蹂躙します。
斉の七十余城を攻め落とし、残るは莒と即墨という二つの都市のみとなります。
斉国はまさに滅亡寸前まで追い込まれたのです。
しかし、あまりに偉大な楽毅の業績は、かえって楽毅自身の身を危うくする結果を招きました。
昭王の跡を継いだ恵王は楽毅を必ずしも信頼しなかったため、その隙をついた斉の名将・田単の策略によって楽毅は更迭されてしまいます。
楽毅を失った燕軍はもはや斉の領地を維持することはできませんでした。
燕軍は田単によって撃破され、斉は永久に失われたのです。
この楽毅の運命は、次に紹介する韓信とも通ずるところがあります。
自らの才能を全開させることは、常に好ましい結果を招くとは限らないということです。
狡兎死して良狗烹らる
これは漢帝国樹立に大きな功績をあげた名将・韓信のエピソードです。
「狡兎」というのはすばしっこい兎のことです。
「良狗」というのはここでは猟犬のことです。
すばしっこい兎が死ぬと、猟犬はもう用済みです。
煮て食べられてしまいます。
偉大な功績をあげた功臣も、天下泰平になってしまうと粛清の対象になってしまう例えです。
項羽と劉邦の戦い
漢の劉邦と楚の項羽との戦いのさなか、韓信は劉邦の別動隊として魏や趙、そして燕、さらに斉などを征服し、項羽が派遣した竜且も撃破して、その領土は劉邦・項羽と天下を三分する勢いを示すまでに至りました。
もはや劉邦の麾下と呼ぶにはあまりに強大になりすぎました。
斉の征服が完了したとき、韓信は主の劉邦に仮の斉王になることの許可を求めています。
当時劉邦は漢王ですから、韓信が斉王になれば名目上は劉邦と同格ということになります。
これはきわめて挑発的なことで、この韓信の申し立てに劉邦は激怒しましたが、現実的には韓信の力無しでは項羽に対抗できないため、その申し出を飲むしかありませんでした。
しかし、韓信のこういう行動は、劉邦が天下をとったあとの韓信の地位を考えるとき、のちに禍根を残すものといえます。
劉邦の心象を著しく損なったことは確かだからです。
そのため、配下の蒯徹なども、韓信に自立して天下を狙うべきと熱心にすすめたほどです。
しかし、韓信にはその気持ちがなく、結局、劉邦のために項羽を垓下に葬り、黥布や彭越とともに漢帝国樹立に大きく貢献しました。
楚王に封じられる
韓信の悲劇はここから始まります。
漢建国後、韓信は楚王に封じられ、まさに破格の待遇を受けます。
しかし、彼のずば抜けた軍事的才能を警戒され、謀反のうわさが常にありました。
劉邦は陳平の進言に従い、陳の国で諸侯を一堂に会すと称して韓信も招き、陰謀を知らない韓信は出向いた陳で捕らわれてしまいます。
その時の感慨が、
「狡兎死走狗烹、飛鳥尽良弓蔵、敵国破謀臣亡」
狡兎死して走狗烹られ、飛鳥尽きて良弓蔵われ、敵国破れて謀臣亡ぶ。
すばしこい兎が死ぬと、もう猟犬は要らない。
鳥がいなくなれば弓も必要ない。
敵国が破れたなら、謀臣も無用の長物だ。
それでも韓信はこのときは許され、楚王から淮陰侯に格下げされましたが、命は奪われませんでした。
淮陰侯として
それから4年後、北方で陳稀という人物が反乱を起こし、韓信の趨勢に注目が集まるようになります。
このとき、またもや韓信の謀反を訴える報が中央に届き、劉邦の妻・呂公は丞相の蕭何と謀って韓信を都におびき出し、韓信を捕らえてついに処刑してしまうのです。
韓信は蒯徹の忠告に従わなかったことを悔いたそうですが、もはやあとの祭りでした。
あまりに偉大な業績をあげた人物は、トップになるのでなければ、やがては粛清の対象にされてしまうという教訓を残したのが韓信のエピソードといえましょう。
まとめ
十八史略はあくまでダイジェストですから事件の詳細な背景などは原典にあたっていくのがベターです。
それでも、手軽でアクセスしやすい本書は、長い間日本人に親しまれてきました。
ぜひ、教養の一環として気軽に本書を手に取ってほしいと思います。
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