私たちにとってなじみ深い主張、それが性悪説でしょう。
さしたる反発を受けることもなく、そうだよねという感覚で受け入れられるのではないでしょうか。
今回は、性悪説を主張した荀子にスポットを当てて紹介していきます。
荀子とは
荀子はBC340からBC238ごろに中国で活躍した人物で、当時中国は戦国時代でした。
彼は「儒者」という孔子を尊崇する一派の学者ですが、彼の思想には多様な面があって、儒者のフレームを超越している部分があり、のちの韓非子の登場を準備する下地ともなりました。
その荀子が主張したのが性悪説ですが、どんな内容なのか、文字を見れば一目瞭然ですが、一応説明していきましょう。
人間はそもそも善ではありえない、それが荀子の主張です。
もともとが悪ですから、自由意志で善を選ぶことはできません。
善なる側面が認められるのは、ひとえに教育による賜物です。
教育という言葉は適当ではないかもしれません。
むしろ、国家による改変と個人の修養にかかっている、といった方がいいでしょう。
では、詳しく、その内容を見ていきましょう。
荀子の主張
人間はそもそも悪である
「人之性悪、其善者偽也」
(荀子 性悪篇)
(私訳)「人の本質は悪であって、善なる面は矯正の結果である」
彼のいいたいことはこれに尽きますが、少し敷衍してみます。
人はなぜ悪なのか。
(同上)
「今人之性、生而有好利焉、順是、故争奪生而辞譲亡焉」
(私訳)「人というのは、生まれつき自身の利益を求める傾向がある。その傾向に従うと、争いが生じ、譲り合いというものが滅ぶのだ」
年寄りの説教じみてきましたが、そのいわんとするところを追ってみることにします。
人間の先天的な特徴として、自分の利益を求める傾向がある。
これはその通りでしょう。
不利益を求める人などいないからです。
この性向こそが争いのもとであり、争いを根絶するためにはこの性向そのものの改変が必要である。
これが彼の主張です。
(同上)
「従人之性、順人之情、必出於争奪、合於犯分乱理而帰於暴」
(私訳)「つまり人の性向や人情にしたがえば、結果は相争うことになるし、合理というものも顧みられず、社会の混乱を招くことになる」
ここで、必然的に制度の問題がクローズアップされます。
システムとしての「礼」
システムとしての「礼」とはどんなものでしょう。
一言でいえば、ヒエラルキーのことです。
「人生而有欲、欲而不得、則不能無求、求而無度量分界、則不能不争」
(礼論篇)
(私訳)「人間には欲望というのものがあり、満たされなければさらに欲望は高まる。もし、ルールというものがなければ、必ずお互いに争いあうようになる」
欲望には限りがない反面、資源というのは有限です。
その均衡点を探るのが政策の主眼です。
具体的には、どうリソースを分配するかですが、そのためには社会をいくつかの階層に編成しなければなりません。
これが「礼」の役割です。
この制度を定めたのは「先王」、かつて中国を治めていた古の王たちですが、この「先王之法」に従って統治することが為政者の務めなのです。
孟子はどちらかといえば、道徳を強調しがちなのに対して、荀子は政治に重点を置きます。
道徳はあくまで政策に有効である範囲において価値があるのであり、政策にもとる価値判断などはまったくの無意味である、という結論が導かれます。
孟子に対する批判
「性悪編」に孟子に対する批判が収められています。
孟子と荀子が根本的に異なるところは、重点を個人におくか、国家におくか、ここに掛かっているのではないでしょうか。
荀子にとっての「善」「悪」の基準もひとえに国家の平安の有無によるからです。
(性悪篇)
「凡古今天下之所謂善者、正理平治也。所謂悪者、偏険悖乱也」
(私訳)「昔から善というのは、道理に適い、平和に治まることである。悪というのは、道理に従わず偏った意見に固執し、世の中を乱すことである。」
秩序が保たれていれば「善」、いなければ「悪」、きわめてシンプルです。
なぜ秩序は乱されるのでしょう?
「理」にもとるからです。
では「理」とは何か?
それは、荀子が正しいと信じている価値体系のことです。
このルールに忠実であれば、秩序は維持されるわけですから「善」なのです。
孟子に対する批判の中心点もそこにあることになります。
孟子にはシステムに対する視点が乏しい。
あるいは、その説を受け入れてしまうと、システムを構築していくことが困難であると荀子は判断したのです。
人間は悪ですから、統制が必要です。
統制なしには秩序は保たれません。
なんだか、全体主義者の主張のようにも感じられますが、荀子が生きた時代背景を考えるとやむを得ないかもしれません。
彼が生きたのは戦国時代中期から末期にかけてです。
まさに混乱から秩序へ移り変わる過渡期です。
秩序が夢物語ではなく、現実のものとして多くの人にイメージされるようになってきたといっていいでしょう。
孟子とはシステムに対する温度差があるのです。
性善か、性悪か
では、結局、どちらの主張が正しいか、気になるところです。
荀子は、システムに個々の人間を組み込んでいきます。
まず、あるべき国家のイメージが先行し、その実現のためのシステムを構築していく。
その理論の根底にあるのが「性悪説」というわけです。
孟子の方は、あくまで個々の人間の内面を重視する姿勢ですから、哲学的とも文学的ともいえます。
孟子が教育者なら、荀子は管理者ともいえるのではないでしょうか。
孟子には意気消沈した人を再び立ち上がらせる力があります。
それは彼の議論が道徳・倫理に関係するものだからです。
人間は道徳的動物ですから、「正しい」という確信なしには力強く踏み出すこともできません。
一方、荀子の方は、まるで就業規則やマニュアルを読むような味気無さを感じます。
ところどころ、心に残る優れた表現があることも事実ですが、読み進むうちにそれらは後景に退いていき、かわりに前景に押し出してくるのが、君子のあり方や礼制についての議論なのです。
なにやら、当時の統治を担う実務官僚にノウハウを提供しているような印象を受けます。
荀子が一篇のマニュアルのように感じる所以です。
結局、性善も性悪も、人間をどのレベルで見るかによって決まります。
個人なら性善説が望ましいでしょうし、組織として見るなら性悪説のほうが便利でしょう。
そう考えると、荀子は孟子と違う土俵で戦っているということになります。
そもそもケンカする必要がないのですが、孟子を批判しなければならないほど、当時の孟子の影響力が強かったということでしょう。
まとめ
過去の論者たちの総決算、そんな印象を与えるのが荀子です。
戦乱も終盤に差し掛かった時代に登場した荀子には、秩序への強い意志を感じます。
そのための学問だ、という使命感もつよいように感じます。
深く読み込むことで、私たちも多くのことを学べるはずです。
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