アナーキズムとは何か 自由と国家について考える

哲学

セックス・ピストルズというイギリスのパンクバンドをご存じでしょうか。1970年代に活動し、破滅的な人生を送ったメンバーのシド・ヴィシャスはつとに有名です。

そのセックス・ピストルズの有名な曲に「アナーキー・イン・ザ・UK」があります。

「I am an anti-Christ, I am an anarchist」という歌詞で始まる有名な曲です。私も若い頃よく聞いたものですが、この「anarchist」というのがアナーキスト、すなわち「無政府主義者」と訳される思想を持つ人々です。

若いころから「無政府主義」なんて荒唐無稽すぎる、となかばバカにしていましたが、ちょっとだけ立ち止まって考えてみたいと思います。

一体どんな思想なのか、どんな人々がこの思想を信奉していたのか、そしてこの思想にまだ生命はあるのか、こういった観点からアナーキズムを検討していきます。

結論をいえば、それは「自由」の問題です。

それも「個人」の「自由」の問題です。そのため、必然的にアナーキズムは「国家」と衝突します。

この点をまず見ていきましょう。

個人の自由と国家

アナーキズムが登場したのは、18世紀以降といっていいでしょう。

フランス革命によって近代国家が姿を現すとともに、アナーキズムもまた生まれたのです。「国家」と「個人」の誕生です。

「国家」の原理は統治することであり、「個人」を「個人」たらしめるのは「自由」の原理です。当然この両者は対立します。

「国家」は「個人」を統制しようとしますし、「個人」は「国家」の統制から逃れようとします。

しかし、「国家」は言葉だけで成立するものではありません。具体的にその機関として活動する人々の群れが必要です。

ロシアのアナーキストであるバクーニンは書いています。

国家が存在するためには、その存続に死活の利益を持つなんらかの特権階級が絶対に必要なのです。そして愛国主義と呼ばれるものこそは、この特権階級の連帯利益をなしているのです。

「ロークルおよびショー・ド・フォンの国際労働者協会の友人たちへ」

身近な例で確認しましょう。日本で権力の中枢にいる人々といえば国会議員と官僚たちでしょう。

国会議員の多くは2世あるいは3世、4世という議員もいます。国会議員は国民の代表ですが、多くは世襲なのです。

当然、各議員の後援会も父・祖父の代からの支援者が多くを占めているでしょう。つまり、その議員とともに利益を享受してきている人々なのです。

議員の方も心得たもので、彼ら支援者の利益のために働くわけですから、世襲議員そのものが既得権益層です。

これはもはや昔の貴族と変わりありません。

官僚とて五十歩百歩です。国家によって利益を得ている層が国家を運営し、愛国主義を鼓吹して自分たちの利益のために民衆を扇動する。

民衆はそのことを悟らず自分自身の「自由」を「国家」に惜しげもなく進んで提供する、こういう図式は今も昔もかわりません。

では個人はどうすればよいのか。この袋小路から脱出する道はあるのでしょうか。ここにアナーキズムの存在意義があります。

そこで、アナーキストたちの言葉に耳を傾けてみたいと思います。まずはバクーニンからです。

バクーニンの場合

バクーニン(1814~1876)はロシアの貴族の家柄に生まれ、父親は元外交官、母親の実家も多くの大臣、将軍を輩出した名門の一家でした。

名門の出身という点ではクロポトキンと同様ですが、バクーニンはクロポトキンと違い、きわめてアグレッシブなパッションに満ちた人物でした。

むしろ常軌を逸している点もないではありません。

宗教、すなわちキリスト教に対する反感にその特徴がよく出ています。

バクーニンは個人の自由を最も重要な価値とみなし、それと対立する国家をきびしく拒絶しますが、この国家に対する反逆は、キリスト教に対する反逆と軌を一にしています。

つまり無神論者です。彼の無神論を読んでいると、なぜそこまで反発しなければならないのか理解に苦しむことが多いのです。

アダムとイヴを創造しておきながら知恵の実を食べてはならないと命令する絶対神に対して暴虐であると文句をつけたり、さらには絶対神に反逆する悪魔サタンを自由思想家として賛美したり、キリスト教徒ならざる私としては何をそんなに怒っているのかといいたくなります。

しかし、宗教に対する妥協のない反逆は、そのまま国家に対する反逆と重なる点がバクーニンの特徴です。

国家と宗教とに共通する部分を感じたのでしょう。バクーニン自身、「国家とは、教会の弟なのです。」と書いています。

国家と教会に共通するもの、それは「権威」です。

「権威」の名のもとに抑圧してくる力、それをバクーニンは拒否するのです。

といってすべての「権威」を拒絶するわけではありません。それは無意味な行為です。

バクーニン自身、つぎのように書いています。

長靴のことなら、私は長靴屋の権威にまかせよう。家屋、運河、鉄道については建築家や技師に相談する。こうしたたぐいの専門知識に関しては、それぞれの物知りたちに尋ねもしよう。

「鞭のドイツ帝国と社会革命」

きわめて常識的な態度です。「権威」そのものを否定する必要などないのです。

しかし、それが虚偽であった場合は話が違ってきます。

われわれは、いっさいの自然的権威を、また事実の感化を受け容れはするが、しかし、法的な権威や感化は、いっさいしりぞけるのだ。なぜならば、あらゆる権威、あらゆる法的感化は、それが公式に押しつけられる場合、ただちに抑圧と虚偽に転化し、必ずやわれわれの上に隷従と不条理とを押しつけるようになるからだ。

「鞭のドイツ帝国と社会革命」

バクーニンがアナーキストである理由は、多数者を抑圧しつつ利益を得る少数者が許せないからなのです。

彼の反発は道徳的な心情から発しているといえるのです。

クロポトキンの場合

クロポトキン(1842~1921)もロシア生まれのアナーキストです。名門貴族出身なのはバクーニン同様ですが、パッショネイトなバクーニンと対照的に理知的な印象を受けます。

バクーニンにおいては「個人」と「国家」の対立が究極まで突き詰められ、結果として「国家」を峻拒して「個人」の側に立つわけですが、「個人主義」ということなら何もアナーキズムだけの専売特許ではありません。

バクーニンやクロポトキンが生きた19世紀ならニーチェがいますし、個人主義の極北ともいえるマックス・シュティルナーもそうです。

彼らとアナーキストとを分かつのは社会的・経済的関心の有無ということになります。

労働者の過酷な労働環境に興味をもつニーチェの姿というのは想像もつかないものです。

国家の搾取に義憤を感じるスティルナーというのも同様です。

アナーキストの戦場がまさにこの地点であるのと対照的なのです。現在の社会の分析、そしてあるべき社会のビジョン、それがクロポトキンの世界です。

労働と工場、分業と合成、などがクロポトキンの関心事項なのです。

しかし、分業を否定し、「結合」という理念を強調するクロポトキンは、やや理想的にすぎるように感じられます。

「友愛」という言葉と同様、具体的なイメージを結ばないただのスローガンです。

分業の否定は、専門性の否定でもあります。バクーニンが専門性を否定しなかったのとまさに反対です。

専門性のない生産にどのような革新が期待できるのでしょうか。

結局、それは自給自足のありがちなユートピアに終わってしまうのではないか。

クロポトキンは理性的な哲学者ですが、社会や支配階級に対する激しい情動というものが感じられません。

結局、人を動かすのは冷たい理知ではありません。熱い情動なのです。

大杉栄の場合

大杉栄(1885~1923)は香川県出身のアナーキストです。関東大震災(1923年)のどさくさにまぎれて憲兵隊の甘粕正彦によって殺害されました。

大杉はきわめてエキセントリックな人物で、私生活も奔放であり、痴情のもつれで刃傷沙汰にまきこまれ重傷を負うなど不名誉なエピソードにも事欠かない一面も持っています。

彼のアナーキズム思想は1920年に書いた「新秩序の創造」に簡潔に表現されています。

僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。そして一切そんなものはなしに、みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

「新秩序の創造」

たしかにそれは理想でしょう。そうなればどんなにいいか、そしてそれがただの夢にすぎないことを私たちはよく知っています。

そして、アナーキズムが所詮ただの空想にすぎなかったのも、現実に立脚した理論的土台をもちえなかったからです。

そして、アナーキズムが夢であり続ける限り、これからもその夢に酔う人々がいなくなることはないでしょう。

それはもはやアナーキズムという姿ではなく、別な装いとともに現れるでしょうが、まだ人々を酔わせる力はあるかもしれません。

しかし、酒は憂さを晴らしてはくれても、現実を変える力にはなりえません。

思想としての力強さに欠けている点がアナーキズムを嗜好品に終わらせた最大の原因であると思います。

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