「死」について考えてみる  話題の『「死」とは何か』を読む

哲学

「死」は誰にとっても他人事ではありません。

いま生きている人の死亡率は100%です。やがてはこの世界の全員が死亡します。

考えてもこの事実は変えようがありませんが、この事実をじっくりと考えてみた人もそれほど多くはないでしょう。「死ぬのはいつも他人」だからです。

別におどすわけではありませんが、やがては自分にもその運命がめぐってきます。

そうなって慌てる前に、一度立ち止まって考えてみてはどうでしょう。今回ご紹介するシェリー・ケーガン『「死」とは何か』はそのための最適のテキストといっていいでしょう。

Kindle Unlimitdでは、縮約版が無料で読めます。この縮約版をご紹介していきます。

そもそも「死」とは?

「死」とは、

身体が作動し、それから壊れる。死とは、ただそれだけのことなのだ

『「死」とは何か』    位置No.946

これが著者のスタンスです。生きるとは「作動」することで「死」とは停止すること、と言い直すこともできるでしょう。

人体は一種の機械であり、年数とともに劣化していき、やがてはその活動を止める。死後の世界などというのは存在せず、魂などというものも存在しない。

このような著者の思想を理解するために、3つのキーワードに注目しておくことが必要です。それは以下の3つです。

・物理主義
・P機能
・人格の同一性の問題

それぞれを見ていきましょう。

物理主義

「物理主義」というのは、人間が物質的な存在のみで構成されているという考えです。

これは、人間が「身体」という物質と「魂」という2つの原理で構成されるとする二元論を拒否する姿勢といえます。

物質の存在は誰もが認めるところですが、問題は「魂」の方です。

「魂」が存在するとすれば、物質とは全く違う原理にもとづいたもう一つの原理(これはまだ発見されていない)を認めることになります。これが二元論です。

著者はこの二元論を退け、物質のみの原理をひとまず採用します。だったらただの唯物論ではないか、と思うでしょうが、著者は「魂」は否定するものの、「心」の働きの不思議さは十分認識しており、唯物論者になりきるにはためらいがあるようです。

心のような「非物質的な部分」を感じさせる働きを無視するわけにはいかないので、著者はこれを「P機能」と呼んで自分の議論のなかに位置づけようと試みています。では、「P機能」という言葉で、どのような展開が期待できるのでしょうか。

P機能とは

「P機能」のPとは人格のことです。つまり、P機能とは、人格をもった行動をするのが人間である、ということを意味します。

この「人格」という点で人間と動物を分かつのが著者の立場です。カンタンに言えば、言葉などの文化的な行為や労働などの共同作業、芸術などの創作活動など人間の意識的な活動のことをP機能と呼ぶのです。

このP機能というキーワードで意識的な活動に注目することにより、重要な視点が浮かび上がってきます。

それは、いわゆる「脳死」問題です。

体は異状なく健康そのものなのに、意識をつかさどる脳が機能しない場合、つまりP機能が働いていないケースでは、人は生きていると言えるのでしょうか?

あるいは、P機能の「死」をもって人の「死」と決めていいのでしょうか。

ここで著者が指摘したいのは、「生」と「死」の境界線のあいまいさであるように思われます。P機能が「生」の証としても、では睡眠中はどうなるのか、意識がない状態は「死」んでいるのと一緒なのか、こういった疑問も浮かんできます。

といっても、P機能が体の働き(著者はこれをB機能と呼びます)に依存しているのは確かです。

いろいろと考えると難しい問題が生起してきますから、ここではひとまず「生」と「死」のあいまいさにあらためて思いをいたして、その事実に驚いておくことが大切です。驚くことこそが哲学に必要な唯一の入場券だからです。

人格の同一性の問題

これも興味深い視点です。今日の自分と、明日の自分、そして明後日の自分が同一であるということ、これが「人格の同一性の問題」です。

当たり前ではないか、という声が聞こえそうですが、これは必ずしも当然のことではありません。今日の人格が継続して保たれる保証はどこにもないからです。

サラリーマン生活でこんな経験はないでしょうか。上司の命令で行った業務の成績が芳しくなく、いざ責任問題がもちあがったときに肝心の上司が知らぬ存ぜぬを決め込むという経験です。この上司の人格は一貫していません。昨日の自分と今日の自分が矛盾しているのです。

これはささいな例ですが、この上司も人格が崩壊しているという点では人後に落ちません。この「人格の同一性の問題」は、難しい問題をはらんでいます。

「魂」の存在を肯定する二元論者にとっても、新たな困難の種になるのです。もし「魂」があるとして、昨日の「魂」と今日の「魂」と同一でなければ、つまり「同一性」がなければ、「魂」の存在も意味のない話になってしまいます。

では先ほどの人格崩壊している上司の例でいえば、時間的な人格の継続が絶たれている人はどうなるのでしょうか。「魂」にも断絶があるのでしょうか。

このように、さらに難しい問題が出てきてしまうのです。ただ、こういうことは言えます。私たちが望んでいるのは、次のようなことです。

私にとって大切なのは、私が存在し続けることだけでも、ゆっくりと変化するこの人格の行き着く所に誰かが存在していることだけでもない。そう、私は、自分が今持っているのと同じ人格を持った人に、将来も存在していてもらいたいのだ。今の私の目標や記憶などと似たものを持った人に。

同   位置No516

こういう願望こそが、「魂」説を生み出したのかもしれません。

「死」によって人生の価値を知る

人生の価値とはなんでしょう?

どういう人生が価値があり、どんな人生には価値がないのでしょう。それを決める基準などあるのでしょうか。

ひとつの有力な仮説として「快楽主義」があります。程度の差こそあれ、多くの人はこの主義に従って生きているようにも見えます。

快楽主義とはなんでしょう。快楽を得ることを目的とする生き方のことです。

他のものは手段としてだけ価値があった。突き詰めれば、それらは快感に至るための手段だったのだ。だが、快感はそれ自体に手に入れる価値がある。手段として有益なものは、 間接的に 価値がある。一方、それ自体に価値のあるものは、哲学では 本質的に価値がある と言う。

同  位置 2,569

これは説得力がある主張ではないでしょうか。

誰も不快な経験をしたいと思う人はいないでしょう。いわば、人生においてプラスばかりを集めてマイナスをできるだけ避ける。そして最終的な人生の損益計算書はプラスでしめくくる、それが理想だとみられているのではないでしょうか。

しかし、著者はこの考えに完全に同意しません。おそらく多くの人もそうでしょう。それだけではない、という直感があるからです。

人生には快感ばかりで痛みがないことより、もっと大切なことがあるからだ。というか、私にはそう思えるのだ

同  位置 2663

もちろん、「もっと大切なこと」そのものはこの本には書いていません。

書いている本などありません。

自分で見つけ出すしかないのです。

しかし、本書を丹念に読めば、ヒントぐらいはあるかもしれません。ぜひ自身の目で確認してみてください。

まとめ

「考えたって解決しない問題をあれこれ考えるのは時間のムダだぞ」若いころ、友人にこんなことを言われた記憶があります。

「死」について考えすぎることは不健全なことかもしれません。解決しようのない難問だからです。

ですが、解決はできないにしても、「死」がどうしようもない現実である以上、考えを整理する必要はあるのです。

本書はその試みの一つで、読者は答えは得られないにしても、考える道筋はよりクリアーになるのではないでしょうか。

興味を持った方はぜひ一度目を通していただきたい。

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