今回ご紹介するのは中村圭志さんが著した「教養としての仏教入門」幻冬舎新書 です。
・仏教についてよく知らないけれども興味はある。
・キリスト教やイスラム教とどう違うのか。
・そもそも宗教に興味がない。
こんな方々にこそ読んで欲しい名著です。
難解だった仏教が、この一冊を読むことで劇的に理解できるようになります。
そのエッセンスを少しだけ皆さんにご紹介しましょう。
仏教とは
まず、そもそも仏教とはなんでしょう?
中村氏の仏教をおさえるポイントとして紹介しているのは次の4つです。
1.仏教は修行ゲームである
「教養としての仏教入門」 p34
2.仏教は相対主義である
3.仏教は死生観が多様である
4.仏教は図像(イメージ)が豊富である
私が一番驚いたのが1番の「仏教は修行ゲームである」という指摘です。
確かに仏教はゴールである「悟り」を目指す修行の過程です。
中村氏も言うように、日本人の修行好き(マゾっぽさ)は仏教を背景として成立したのかもしれません。
この本のなかでは「エヴァンゲリオン」が一例として紹介されていますが、日本のアニメや漫画の修行設定のものがいかに多いか、考えてみれば驚きます。
「ドラゴンボール」なんてその典型的なものではないでしょうか。
もちろん、仏教は肉体の修行ではなく精神の修養が目的ですが、「修行ゲーム」という指摘は本当に新鮮でした。
ちょっと本筋からはそれますが、TBSの「SASUKE」という番組がありますよね。
その中で、1stステージ、2ndステージとクリアーしていくチャレンジャーを見て興味深かったのは、日本人選手は大体の人が成功しても失敗しても泣くんです。
成功したときは達成感からでしょうし、失敗したときは自分の努力の足りなさを口にする場合が多いように感じました。
一方、外国人選手たちは成功しても失敗しても、対照的にいつも笑顔でした。
もちろん失敗したときは悔しいに違いありませんが、ベストは尽くしたという感じでサバサバしていたのが印象的です。
日本人と外国人のこの違いにも、文化的背景があるのでしょうが、ひょっとして修行ゲームである仏教が影響していないか、と疑問に思った次第です。
3.4.のポイントについては実際に本を読んでいただいて確認してもらうとして、「2.仏教は相対主義である」という点は少し説明しておきたいと思います。
そもそも、「ブッダは医者である」と考えれば、さまざまなブッダの言説も症状に合わせた処方箋なのだから相互に矛盾することがあっても当然なのです。
大切なのは病気を癒すことであって、処方をおしつけることではありません。
こういった相対主義は、他宗教との共存という日本以外ではめったにお目にかかれない状況にもなった一因でもあります。
もちろん、日本人の気質が原理主義的なものを嫌う側面があるのは確かです。
仏教のこういう相対主義は、「空」という概念に集約的に表現されています。
仏教のキーワード
仏教の近づきにくさの原因のひとつが用語の難解さです。
これは翻訳の問題ですが、なんとなく仏教がよそよそしいものに感じるのも、仏教独特の概念の難しさによります。
この本では、重要なキーワードをいくつかピックアップして説明していて非常にわかりやすい。
その中から、これだけは知っておきたい用語を以下に選んでみました。
順番に見ていきましょう。
諸行無常
これは有名な言葉ですから、知らない人はいないでしょう。
この世のすべては変化するということです。
この点に関して、中村氏は重要なことを指摘しています。
変化の相の裏には無変化の相もある。(中略)この無変化の何かを土台にして、変化した部分を眺めて「変化した」と言っているのである。もし何もかもが変化してしまったのであれば、昔と今とを比較して「変化した」と言うこと自体も無意味になってしまうだろう
同 p74
変化を知るためには、変化しない土台が必要というのはまったくその通りです。
私たちがこの世の変化を認識するためには、自己という変化しない主体が必要です。
しかし、この主体もまた、かりそめのモノに過ぎないと説くのが仏教です。
そのことは次の「諸法無我」につながっていきます。
諸法無我
諸法無我について中村氏は2種類の解釈を書いています。
1「あらゆるものは我(自分)ではない」
同 p76、77
2「あらゆるものは我(=不変のアイデンティティ)をもたない」
1番目の方は、いわばエピクテトスの態度といえましょう。
すべてのものは、私のコントロール下にあるわけではない、という態度です。
重要なのは2番目です。
中村氏は比喩としてレゴブロックをあげています。
レゴブロックで自動車をつくり、解体してまた個々のレゴブロックに戻して、また飛行機を組み立てる。
それと同じで、「不変のアイデンティティ」というものは存在しない。
「我」というものがないからこそ、すべてのモノは変化する(=諸行無常)世界が成立する。
そして「我」が存在しないということは、「空」の思想と接続します。
空
大乗仏教でもっとも重要なキーワードと言っていいでしょう。
しかし、その内容についてはほとんど知られていないのではないでしょうか。
中村氏は次のように書いています。
枠組みのようなものはあるのだが、実体はゼロであるようなものがシューニャ、空である。
同 p97
私たち自身を反省してみればよくわかりますが、私というものは私の体のどこに存在するのか、はっきりと指摘することは難しいのです。
心臓が私なのか、あるいは脳か。
脳に私があるのなら、体は私ではないのか。
脳も体も含めて私だとしても問題は解決しません。
脳や体は細胞から構成され、それらの細胞内にはDNAが存在し、そのDNAは4種類の塩基で構成され、と細かく分割してみると、私というものはどこにも見いだせなくなってしまいます。
私というのは、きわめてアバウトな、一先ず確定しておくべき境界にすぎないのかもしれません。
まさに「枠組み」はあるが、「実体」はない、これが「空」なのです。
諸法実相
この本のなかでは、他にも「輪廻転生」や「中道」「縁起」などのさまざまなキーワードが紹介されていますが、最後に「諸法実相」についてご紹介します。
この「諸法実相」という言葉、じつは私自身よく飲み込めない言葉のひとつで、いろんな説明を聞いてもいまいちピンとこないのです。
法華経のキーワードであるのは知っていますが、法華経の信仰をもたない私にとっては無縁の言葉でした。
中村氏の説明を聞きましょう。
では、法華経のどこがそんなに有り難いのかというと、
同 p115
(中略)これはまさしく神話的ファンタジーであるが、話のポイントは、いかに境遇が異なろうとみながブッダの因子を備えており、釈迦ファミリーとして究極の仲間である、という主張にある。
もうひとつ引用します。
法華経によれば諸法実相(ブッダの知る世界の真相)の中で、我々ひとりひとりがブッダと通じあっている。そして我々とブッダとの間の扉を開く呪文が「南無妙法蓮華経」なのだ。
同 p117
このように説明されても私自身のなかに法華経を信じる気持ちは生じません。
信仰をすすめているわけではないので、それは当然です。
しかし、諸法実相という言葉がなんとなく少し身近になった気はします。
それだけでも、この本を読む価値は十分にあるのです。
キリスト教とイスラム教との比較
仏教を知ることで、キリスト教やイスラム教についてもよりよく知ることができます。
逆もまた真です。
キリスト教やイスラム教を知ることで、仏教を深く知ることができるのです。
中村氏が比較しているポイントはつぎの4つです。
1.悟りと神の正義
2.釈迦、イエス、ムハンマド
3.修行、信仰、イスラム法
4.死と裁き
詳しくは実際に本書を読んでいただくとして、4番目の「死と裁き」については少し説明したいと思います。
仏教は輪廻転生の世界観ですので、基本的には生前の行為の善不善により、生まれ変わる場所が違ってきます。
日本人にとっては聞きなれたファンタジーですが、西洋人にとってはやはり奇妙に感じられるようです。
実際に、私が海外で生活したときに、あるイギリス人から、
「君たちアジア人は生まれ変わりを信じてるんだろう?」
と揶揄されたような、もの好きを見るような目で決めつけられた経験があります。
信じているかと聞かれればそれは微妙ですが、私たちの時間の観念がなんとなく円環的だという感じはします。
西洋人の過去から未来への直線的な時間のとらえ方を知ったときに、そのことは少し身に沁みたおぼえがあります。
ではキリスト教での死後は、どんなイメージなのでしょう。
中村氏によれば、死んだ人はまず煉獄というところに行き、その後、たいていの人は天国にいくとのことです。
ただ、キリスト教には個人の裁きとは別に世界全体の裁きというのがあるそうなので、少々話が込み入っています。
イスラム教はその点シンプルです。
死者はずっと死んだままで、世界の終わりにすべての裁きが下り、天国か火獄か、どちらに行くかが決定されるそうです。
興味深い物語ですが、重要なのは、この物語は信者にとっては物語ではないということです。
信者にとっては真実なのです。
私たちは異文化の人々と付き合うときに、そのことを絶対に忘れてはいけないのです。
まとめ
中村圭志著「教養としての仏教入門」は仏教を知るために最適な著作です。
まったくの予備知識なしで読み進むことができるでしょう。
興味を持った方は、本書はもちろん、中村氏の他の著作もぜひ手に取ってみてください。
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