有名な本ほど、読まれないものです。
実際に読まれないだけではなく、著者の意図とは違ったかたちで受け止められている名著もあります。
マキャベリの「君主論」はそんな名著の一冊です。多くの翻訳書がありますから、読まれていないわけではなさそうです。
一体どんな内容なのか?今回は「君主論」をご紹介しましょう。
名著と言われているけれど
名著とされているマキャベリの「君主論」ですが、若いころに読んだときは正直ピンときませんでした。
当たり前のことがつらつら書かれている印象で、これのどこが名著なの?と首を傾げたものです。
歳をとった今、改めて読み直してみても、さほど感想はかわりませんでした。リアルポリティクスはもっと過酷な現実があるはずで、マキャベリの主張は常識的なものにすぎないのでは、というのが正直な感想です。
しかし、です。世界的な名著である以上、私が読み落としている重要な部分があるはずだ、と反省してさらにもう一度読み直してみました。
再再読で得た感想は最後に紹介するとして、まずはマキャベリの思想について紹介します。
まずは、「君主論」の重要な概念である「フォルトゥーナ(運)」と「ヴィルトゥ(力量)」について理解しておきましょう。

フォルトゥーナ(運)とヴィルトゥ(力量)
世界は「フォルトゥーナ(運)」に支配されている、というのがマキャベリの基本的な認識です。つまり「運命」です。
運命としてのフォルトゥーナ
現代社会はテクノロジーの発達により生活環境が激変し、私たちの生活もきわめて快適になりました。
さらに、日本で、あるいは世界で起こった出来事がその日のうちに全世界の人々に共有されるという驚くべき情報社会に住んでいます。
日常の便利さのせいで普段意識することはありませんが、私たちの人生もまた個人の力ではどうしようもない巨大な流れに翻弄される点では、ルネサンス期のイタリアと大差はありません。マキャベリの時代では、それが一層強く感じられたに違いないのです。
私たちの人生は「フォルトゥーナ(運)」に支配されている。そして、国もまた「フォルトゥーナ」に大きく左右されるのです。これは常識的な見解です。多くの人が同意するでしょう。
運は味方するときもある
たとえば、東日本大震災のときに発災した福島原発事故です。東日本が壊滅する最悪のシナリオもあったなかで、現在わたしたちが何事もなく日常をおくれているのは、現場のエンジニアたちの命を懸けた作業と、そして日本には「運」があったことと、この2点が壊滅的な大事故を回避した大きな要因でしょう。
ここでは、エンジニアたちの奮闘が「ヴィルトゥ(力量)」にあたるといえましょう。
マキャベリは、この2つの力、つまり「フォルトゥーナ」と「ヴィルトゥ」が国家運営のうえで重要な役割を果たすと考えたのです。
運命にあらがう力、それが「ヴィルトゥ」
ただ、「フォルトゥーナ」は人間の力ではどうすることもできません。コントロール不可です。であれば、人間が関与できるのは「ヴィルトゥ」のみということになります。
「ヴィルトゥ」の力で運命を自らに引き寄せる、それができるのがすぐれた君主・指導者であるとマキャベリはいうのです。
チェーザレ・ボルジア
それができた優れた君主としてマキャベリがあげているのが、チェーザレ・ボルジアです。
「君主論」の第7章で詳述していますが、チェーザレの目的達成のためには手段を択ばない果断さ、スムーズな統治のためには他人に汚名を着せて処分する冷酷さ、こういった特質は個人としては非難されるべきものであっても、君主・指導者としては必要なものであるとマキャベリは考えます。
しかし、その見事なチェーザレ・ボルジアといえども、「フォルトゥーナ」が見放したとき、すべてを失わざるを得なかったのです。
ここで注目したいのは、チェーザレの行為、具体的には、政敵の抹殺や部下に汚名を着せて処刑するなどの行為は、個人として尊重されるべきものとはいえません。
すべての人間がそのようにふるまえば社会は成立しません。また、すべての人がそのようにふるまうわけもありません。一般的な道徳を軽々と飛び越えていくのはごく一部の人間だけです。
では、このような指導者を期待するマキャベリにとって「国」とは何なのか。イタリア語で「国」は「Stato」です。ここに、マキャベリの独創があります。それは「Stato」の哲学なのです。
「Stato」の哲学
マキャベリが生きたイタリアは、ルネサンスに輝く偉大なイタリアであるとともに、フランスやスペインら外敵に蹂躙される混迷のイタリアでもありました。
傭兵と八百長の戦争
当時のイタリアは大小さまざまな共和国や君主国がひしめくいわば戦国時代です。しかも、戦争は傭兵たちによっておこなわれ、その傭兵たちはネットワークによって結びついており、戦争といっても事前に勝敗が決まった八百長でした。
このような状態のイタリアではフランスなどの外敵に太刀打ちできるわけもなく、つねにイタリア半島での主導権争いは外国の意向が強く反映され、イタリアの各国が主導権を握ることはなかったのです。このような情勢のもとで、マキャベリはフィレンツェ共和国の官吏として現実政治に参加しつぶさにその光景を観察する機会を得たのでした。
国家を運営するには
このなかでマキャベリがはぐくんでいったのが「Stato」の思想です。それは、「国」を支配する技術です。権力をにぎったものが、どのように国家を運営していけばいいのか、その方法論という形をとります。たとえば、
心に留めるべきは、ある国を奪いとるとき、征服者はとうぜんやるべき加害行為を決然としてやることで、しかもそのすべてを一気呵成におこない、日々それを蒸し返さないことだ
「君主論」池田 廉訳 p80
あるいは、
ひとつの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざるばあいには、悪徳の評判など、かまわず受けるがよい
同 p133
もうひとつ引用しましょう。
名君は、信義を守るのが自分に不利をまねくとき、あるいは約束したときの動機が、すでになくなったときは、信義を守れるものではないし、守るべきものでもない
同 p148
君主・指導者である以上、被支配者とのタテの関係はもちろん、各国とのヨコの関係においても、自らの利益の最大化を目標として信義などの世間の規範にとらわれてはならない、そうマキャベリはいうのです。
現実=マキャベリの思想
しかし、こういった言葉がわたしたちを驚かすことはもはやないといっていいでしょう。政治家や官僚が信義をないがしろにするさまを私たちは日々見せつけられています。国内だけではありません。外国においても同じです。いやむしろ日本はまだかわいいものだといえましょうか。
私たちは知らず知らずのうちにマキャベリ的世界に住んでいるのです。これが私がマキャベリを読んでもたいした感想を持たなかった理由です。
マキャベリの志は顧みられず、彼のマニュアルだけがありがたがられているのです。いまさらマキャベリのマニュアルでもない、そんな印象です。
重要なのは、マキャベリが実現したかったことです。それは外敵を退け、確固としたイタリア、自分の足で立ち、干渉を受けない自主独立のイタリアであったはずです。その志を理解しうるなら、マキャベリの「君主論」は新たな古典として読者にせまってくるのではないでしょうか。
まとめ
この記事を書くまではそれほど興味がわかなかったマキャベリですが、こういう形でまとめてみると、少しだけマキャベリに近づけたような気がします。
書くことで理解が深まったように感じます。
マキャベリの「君主論」は数多くの翻訳がでており、安価で入手できます。いろいろな翻訳を比較してみるのも面白いかもしれませんね。
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