人間は言葉の動物です。
人間は言葉によって救われ、言葉によって殺されるのです。
すぐれた言葉は、人を奮い立たせる力があります。傷を癒すこともあります。すぐれた文学が必要な所以です。
今回は、坂口安吾に焦点をあてます。多くのひとが安吾のエッセイに勇気づけられたのではないでしょうか。
時を越えて読み継がれる安吾の作品に迫ってみたいと思います。
坂口安吾とは
坂口安吾(1906~1955)は新潟県出身の作家です。太宰治や織田作之助らと並んで「無頼派」などとも呼ばれます。
小説家としては「白痴」や「桜の森の満開の下」などが有名で、この他にも「二流の人」や「信長」などの歴史小説や、「不連続殺人事件」などのミステリーも手掛けています。安吾の小説はどれも傑作なのですが、むしろエッセイストとして高く評価されているきらいがあります。
実際、エッセイもおもしろい。安吾のエッセイは読者を勇気づける不思議な魅力があります。
ささいな悩みが馬鹿らしく思えてくる、そんな読後感です。
膨大なエッセイの中からあえて3つの作品を選びました。
「堕落論」(1946年)、「日本文化私観」(1942年)、「不良少年とキリスト」(1948年)の3つです。それぞれ見ていきましょう。
「堕落論」
坂口安吾のもっとも有名な作品です。
初出は1946年4月ですから、敗戦後まもなくの混乱した時代に発表されたわけです。
「生きよ堕ちよ」というのがこのエッセイの要約ですが、道徳なぞ関係ない、とにかく力強く生きろ、というメッセージと捉えてはいけません。
そんな安直なことを言いたいわけではないのです。
安吾がいいたいのは、『人間は堕落するが、堕落しきったままでいるほど人間は強くない。かならず新しい理想、新しい価値を見出さなければ生きていけない。そのためにも正しく堕落することが必要だ』ということです。
人間は道徳的動物です。価値判断をせずにいられない動物です。
言葉の動物ですから当然ですが、人間は動物のように生活のためだけに生きることはできません。
安吾は書いています。
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
「堕落論」
「人間を救う」ためには堕落しなければならない、という点に安吾の求道者としての面がよくあらわれています。
本質的に安吾は誠実なひとであり、常軌を逸した生活をしていても、根は真面目なひとであるという印象を受けます。
「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」という言葉にもそのことが感じられます。
結局自分を救うのは自分自身であるし、自分を発見できなければ救う手段もないのです。
そのための力強いエールが「堕落論」であるともいえましょう。
「日本文化私観」
初出が1942年ですから戦争中の作品です。
戦時中の日本礼賛のプロバガンダを軽くいなすような姿勢で書かれたエッセイですが、とかくナショナリズムに興奮しがちな人々にこそ読んでほしい名編です。
有名な建築家であるブルーノ・タウトが桂離宮を絶賛した話に対する違和感から安吾は筆をおこします。
タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。
「日本文化私観」
安吾の「日本文化私観」は田舎者のエッセイだ、と誰かが評していましたが、たしかにそれは田舎者の視点には違いありません。
京都の人が読んだら違う印象をもつに違いない。
しかし、安吾がいいたいのは、文化遺産についてではありません。文化そのものについてです。
安吾にとって文化とは流動的なものなのです。それは生きている何かなのです。
天才世阿弥は永遠に新ただけれども、能の舞台や唄い方や表現形式が永遠に新たかどうかは疑わしい。
「日本文化私観」
能の玄人なら、そんなのは能を知らない人間の議論だ、というかもしれません。
しかし、安吾の感想はきわめて健全な常識的なものだと私は思います。文化とは生き方だからです。
そして安吾の論点でもうひとつ重要な点があります。
安吾はブルーノ・タウトからエッセイをはじめています。
外国人に認められなければ、自国の文化に自信がもてない日本人を問題にしているのです。
外国の権威がなければ自信がもてないのなら、それは結局は外国崇拝ではないのか、ということです。
この問題はいまでも解決しているとは思えません。
自国文化を、つまり自分の生き方を外国人に認めてもらいたい、という根性を拒否する、それが安吾の姿勢です。
この点に意識的であるためにも、このエッセイは読む価値があります。
「不良少年とキリスト」
このエッセイは太宰治論です。
太宰が死んだのが1948年6月13日、このエッセイが発表されたのが7月ですから気持ちの整理もつかない状態でこのエッセイを書いたのでしょう。
あるいは心の整理をつけるためにこのエッセイを書いたのかもしれません。
安吾は太宰を高く評価していました。それは本作を読んでも十分伝わってきます。
太宰に対する怒りのようなものも感じます。早く死んでしまった太宰に対する怒りです。
太宰を高く評価していた安吾は、太宰の欠点もよく知っていました。
生れが、どうだ、と、つまらんことばかり、云ってやがる。強迫観念である。そのアゲク、奴は、本当に、華族の子供、天皇の子供かなんかであればいい、と内々思って、そういうクダラン夢想が、奴の内々の人生であった。
「不良少年とキリスト」
太宰を罵倒しているのではありません。太宰を憐れんでいるのです。
勝手に死にやがってコンチクショー、という気分です。
とくにこのエッセイの後半は畳みかけるようないらだちがにじみ出る文章で、安吾のエッセイとしてめずらしいものです。
ぜひ本作と「百万人の文学」を合わせて読んでいただきたい。
太宰を失った安吾の悲しみが読者に強く伝わってくるはずです。
坂口安吾を読むなら
安吾のエッセイ集としては岩波文庫「堕落論・日本文化私観 他二十二編」をオススメします。
上記のエッセイはすべておさめられています。
キンドルをお持ちの方なら、「坂口安吾全集 44作品⇒1冊」が便利です。エッセイだけでなく、主要な小説も収録されており、かつ安価です。
ただし、「全集」とはいえ、すべての作品がおさめられているわけではないので、その点は注意です。
安吾の作品はこの他にも新潮文庫や角川文庫など、さまざまなバリエーションがありますので、興味を持った方はぜひチェックしてみてください。
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