ハンガリーという国をご存じでしょうか。今回ご紹介するのは、中央ヨーロッパに位置する長い歴史をもつ国、ハンガリーです。
独特の言語と歴史をもつハンガリー。知れば知るほど、その不思議な魅力の虜になること請け合いです。
どんな歴史をたどった国なのか、どんな困難を克服した人々なのか、さっそく見ていきましょう。
ハンガリー王国
ハンガリー人となった人々は、もともと遊牧民です。当初はマジャール人と呼ばれていました。
現在のカルパチア盆地に定住するようになったのは9世紀ごろとされ、カルパチア盆地をほぼ制圧したハンガリー人は、周辺諸国に侵攻を開始します。南ドイツやビザンチン帝国、イタリアなどはその格好の標的でした。
転換点となったのは、933年にザクセン公ハインリッヒ1世に敗れたことと、955年にオットー大帝に敗北したことの2つです。
とくに後者は決定的な大敗北でした。ハンガリー人は、ヨーロッパの制度を受け入れなければ自分たちの生存もおぼつかない地点にまで追い込まれたのです。先祖伝来の自然崇拝は捨てられ、カトリックの信仰が新たにハンガリー人の精神的支柱となります。
異教徒であった彼らは、キリスト教徒になることでヨーロッパのなかにその生存圏を確保するしかなかったのです。首長みずからが正式にキリスト教徒となり、名実ともにヨーロッパの一王国として確立したのは、イシュトバーン1世(在位997~1038年)のときです。
アールパード朝
ハンガリーの基礎を築いたのは間違いなくこのイシュトバーン1世です。ここにハンガリーの歴史が始まったといっていいでしょう。
司教区をととのえ、行政と軍事の要として45の県を設置し、国内を整備しました。農業とともに商業も飛躍的に発展し、イタリアからはラテン語を解する聖職者たちとともにヨーロッパの文物が持ち込まれました。
イシュトバーン1世はアールパード家の出身であり、この一族が統治したハンガリー王国をアールパード朝とも呼びます。カールマーン(在位1095~1116)時代には、クロアチアを征服し、アドリア海への通路を確保するなど内陸の国家にとどまらない姿勢を見せましたが、ここで思いもよらない災厄に見舞われます。
モンゴル帝国の侵略です(1240年)。一時は全土を占領され、国土は荒廃し、甚大な被害を受けたハンガリーでしたが、オゴダイ・ハーンの死によってモンゴルは退却し、ハンガリーは一息つくことができたのです。
金銀山の開発などにより復興は速やかでしたが、急速な経済成長は各地の封建諸侯の力を強め、相対的にハンガリー王の権力を削ぐ結果をもたらします。以後、強力な中央集権的な体制が生まれにくい状況をハンガリーにもたらすことになります。
選挙王政とオスマン・トルコの登場
1301年にアールパード朝は断絶し、以後、ハンガリーは封建領主たちによる選挙王政に移行していきます。アンジュー家やルクセンブルク家、短いながらもハプスブルク家が王位を継承したこともありました。
しかし、実権は封建領主たちが握る統一感のない体制が長く続き、政治的には不安定ですが経済的には強国という状態が出現します。そんなハンガリーに恐るべき脅威が南東から押し寄せます。
オスマントルコです。1453年にコンスタンチノープルを陥落させたオスマントルコは、いよいよ本格的にヨーロッパへの侵略を本格化させるのです。オスマンを迎え撃ったのはフニャディ家のヤーノシュです。
1456年、両国はベオグラード近辺で激突し、ハンガリーはオスマントルコを打ち破ることに成功しました。この勝利によって、ハンガリーのみならずヨーロッパもオスマントルコの侵略から一息つくことができたのです。
以後、およそ70年の平和がもたらされました。フニャディ家のもとでハンガリーは最盛期を迎えます。とくにマーチャーシュ(在位1458~1490)はオスマンを退けただけでなく、ウィーンをもその支配下におさめ、版図を大きく拡大しました。
しかし、この強力な君主が死ぬと、再びハンガリーは中心を失い封建領主たちが権力をにぎる体制に逆戻りします。バルカン半島で虎視眈々とハンガリーを狙うオスマンを後目に、封建領主たちはみずからの利益を最大化しようと血道をあげることになったのです。
結果、国としてのハンガリーは衰退していき、ふたたびオスマントルコの脅威が迫ってくる事態となります。
オスマントルコの占領
貴族層(封建領主)の勢力拡大にともない、農民層の反抗も頻発し、王国の基盤をいよいよ弱体化させる結果となりました。
オスマンはこういったハンガリー国内の混乱を見逃しませんでした。要衝であるベオグラードは1521年に陥落し、モハーチの戦い(1526年)でハンガリーは決定的な敗北を喫します。
ヤゲロー家の王・ラヨシュ2世もこの戦いで命を落とします。貴族層はオスマン派とハプスブルク派に分裂し、国家としての意思統一はもはや不可能となりました。
首都ブダも1541年にオスマンによって奪われ、事実上、ハンガリー王国はオスマンとハプスブルク家によって分割される形となりました。
首都ブダが解放されたのは1686年、オスマンがハンガリーから完全に撤退するには1920年まで待たねばならなかったのです。
ハプスブルク家とハンガリー
ハプスブルク家はハンガリーと浅からぬ因縁があります。ハンガリーの貴族層によって、短期間ではありますがハンガリー王として迎えられたこともあるからです。
このハプスブルク家がハンガリーの支配権を確立したのは、1699年のカルロヴィッツ条約によってです。オスマンはこの条約によって、ハンガリーやトランシルヴァニアなどをハプスブルク家オーストリアに割譲しました。
ハンガリーはオスマンのくびきから脱しはしましたが、新たにハプスブルク家という敵と対峙する必要にせまられたのです。これは形式的には、中央集権化を望むハプスブルク家と、既得権益を守ろうとするハンガリーの貴族層との対立として図式化できます。
ハプスブルク家からの独立を求める運動で逸することのできない人物として、ラーコーツィ・フェレンツ(1676~1735)がいます。彼はフランスの後ろ盾のもと、ハプスブルク家に反旗を翻しますが反乱軍は鎮圧され、ラーコーツィも他国に亡命するのを余儀なくされます。その後も外国に滞在しながらもハンガリー独立のためにその情熱を燃やしますが、夢かなわず59歳でその生涯を閉じています。
ラーコーツィに代表されるハンガリーの反抗は、ハプスブルク家オーストリアとハンガリーとの力関係にプラスに働いたと評価されています。というのも、ハンガリーを粗略に扱うことはオーストリアにとって大きな不利益である、とハプスブルク家に思わせる効果を持ったからです。
また、自分たちの重要性を認識したハンガリーの貴族層は、ここぞというときにハプスブルク家に恩を売ることを忘れませんでした。オーストリア継承戦争でマリア・テレジアが王位を維持できたのは、ひとえにハンガリーの貴族層の支持によるとされています。
中央集権化と近代化に心をくだいたオーストリアのヨーゼフ2世も、ハンガリーにドイツ語の強制や所得税の導入を押し付けることはできませんでした。ときにはハプスブルク家とともに行動し、ときにはハプスブルク家に断固として「No」を突き付け、ハンガリーは自分を失うことなく、したたかに生き抜いたと言えるでしょう。
オーストリア=ハンガリー二重帝国の誕生
革命と改革が吹き荒れる19世紀は、ハンガリーにとってチャンスでもありました。ハプスブルク家の弱体化に乗じて、アウグスライヒ(妥協)を勝ち取り、形式上は同等のオーストリア=ハンガリー二重帝国として結実したのです。
大蔵省・外務省・国防省を共有し、同一君主を戴くとはいえ、ハンガリーには議会も行政府も存在し、オーストリアとハンガリーは2つの立憲国家として、ともに歩むこととなったのです。
近代化の波が一気に押し寄せてきました。あらゆる分野で近代化が実現していきました。ブダペストがヨーロッパ有数の大都市に変貌したのも、19世紀後半のことです。
ただ、オーストリア=ハンガリー帝国は多数の民族を領域内に抱えていたため、ナショナリズムの勃興とともに統治は不安定になっていきました。
その絶頂が、1914年サラエヴォでのフェルディナント大公夫妻の暗殺です。第一次世界大戦の開始を告げるこの大事件は、2重帝国の解体を告げる銃声でもあったのです。
共産体制のもとで
第一次大戦の終結は、2重帝国の終結でもありました。政権をめぐる混乱のあと、ハンガリーは1920年、ハンガリー王国として再出発します。
ただし、王位は空位のままで、摂政としてホルティ・ミクローシュが就任しました。彼を補佐したのは首相のベトレン・イシュトバーンです。このホルティ体制のもとでハンガリーは経済状態を着実に改善させていきます。
しかし、1930年代に入って、あらたな脅威が勃興してきました。ナチスドイツです。行きがかりでナチスドイツ側になってしまったハンガリーですが、結局1943年にはドイツに軍事占領されてしまいます。
このドイツの支配を終わらせたのはソ連です。虎が去った後に狼がやってきたのです。まさに泣きっ面に蜂です。しかも、ソ連はドイツをしのぐ全体主義国家であり、秘密警察と恐怖政治で、ハンガリーはさらに苦しめられることになります。
かつて、オスマントルコもハンガリーを占領しました。しかし、トルコ人は文化や思想に統制を加えようと考えるほど野蛮ではありませんでした。
ソ連は違います。
イデオロギーとプロパガンダ、それが全体主義国家の常とう手段です。やがて、反体制派とみなされた人々の粛清が始まります。
まずは旧支配階級、ドイツ協力者、中産階級、そして旧官僚階級が連行され、ひそかに殺害されていきました。恐怖政治による粛清は、経済活動を縮小させずにはおきません。
ハンガリーに甚大な被害をもたらした恐怖政治ですが、それもスターリンの死とともに終わりを告げます。1953年に首相となったナジ・イムレによって政策の転換が試みられますが、ソ連と気脈を通じた反対派により失脚させられます。
しかし、一旦緩和した空気の膨張をとめることはできず、ついに民衆の怒りはハンガリー動乱となって爆発します。
ハンガリー動乱
ことの発端は、新たな指導者としてゲレー・エルネーというスターリン主義者が選ばれたことでした。
反ゲレーのデモ行進は、やがて100万人をこえる規模に成長し、事態を重く見た指導部はナジ・イムレを再び首相に呼び戻します。
しかし、すでに民衆とソ連軍との間には銃撃戦が展開され、多数の死傷者をだしていました。ナジはここでワルシャワ条約からの脱退と、ソ連軍のハンガリーからの撤退の交渉を宣言します。
一方、ソ連もナジの動きを手をこまねいて見ているだけではありませんでした。さらなる軍の投入をひそかに命令していたのです。
ソ連軍の投入により、ハンガリー人が求める自由と民主主義は完全に粉砕されました。この一連の騒動で、20万人もの人々がハンガリーを離れ、諸外国に亡命したといわれています。動乱にかかわった数百人もの人々が処刑され、そのなかには首相のナジ・イムレもいました。
この動乱は、当時まだ共産主義に理想を抱いていた西側の知識人に衝撃を与えました。武力で鎮圧するのも辞さないソ連の姿勢に、多くの人が失望したのです。
現在でも全体主義国家にシンパシーを感じる知識人が多いのには驚くほかありませんが、よほど頭が悪い連中か全体主義国家の回し者かどちらかでしょう。動乱のあと、カーダール・ヤーノシュという人物が新たにハンガリーの実権を握りました。
カーダール主義
指導者の名前を冠したこの政策は、動乱によってソ連が対ハンガリー政策を軌道修正せざるを得なかったなによりの証拠です。
具体的には、ハンガリーの対外政策としては常にソ連に同調させる一方で、ハンガリーの国内政策ではソ連がある程度の譲歩を認めたことにその特徴がよく表れています。
ただし、共産党がハンガリーの全権力を握る状況に関しては、ソ連は一歩も譲歩しませんでした。あくまでハンガリーはソ連の従属国なのです。
しかし、その状況下にあって、ハンガリーは東側では比較的自由な体制を堅持しました。東側諸国では考えられなかった国外旅行も、自由に行うことができました。西側にも好意的に迎えられ、市場原理の導入にも積極的であり、この点ではソ連と一線を画します。
ハンガリー動乱をソ連とともにつぶした張本人であり、1988年に失脚するまで約32年間も権力の座にあったカーダールですが、一面から見ればハンガリーをソ連の過度な介入から守ったと言えなくもありません。
ソ連の崩壊とともに共産主義の支配は終わりを告げました。体制が劇的に変化する苦しみを味わったのはハンガリーも同じです。
自由体制と議会制民主主義を採用したハンガリーは、紆余曲折を経ながらも着実に前進しています。中国の一帯一路政策に前のめりな姿勢には少々不安を感じますが、長い歴史と不屈の魂を持つハンガリー人の今後に大いに期待したいところです。
ハンガリー観光のみどころ
なんといってもブダペストです。ドナウ河が街の中央部を悠々と流れ、セーチェーニ橋や国会議事堂など鮮やかな美しさを誇る建築物に心を奪われるに違いありません。
このドナウ河岸そのものが世界遺産に指定されています。とくにおすすめしたいスポットをいくつかご紹介しましょう。
セーチェーニ鎖橋
もともとブダペストは、河の西側がブダ、東側がペストといって別々に発展した町でした。この二つの町を結びつけたのがこのセーチェーニ橋です。1849年に完成し、その後何度か戦乱によって破壊されましたが、その都度修復されて現在の姿に至っています。とくにライトアップされた夜が美しい。
国会議事堂
1902年に完成した国会議事堂は、ブダペストでもっとも有名な建築物といっていいでしょう。ライトアップされた幻想的な美しさは、観光客にもっとも人気のあるスポットです。初代イシュトバーン王から連綿と受け継がれてきた王冠が保管されているのもこの国会議事堂です。
ブダの丘の王宮
13世紀に礎石が置かれたという歴史ある建築物です。その後戦乱や火災で破壊されましたが、改築を繰り返し、現在のような形になったのは1950年代とのことです。現在は王宮ではなく、博物館や美術館として利用されています。
聖イシュトヴァーン大聖堂
河岸からは少し離れますが、ブダペストでもっとも巨大な聖堂がこの聖イシュトヴァーン大聖堂です。完成は1905年で、建築に50年以上を費やしたそうです。初代国王のイシュトバーンの名称をもつこの大聖堂には、イシュトバーンの右手のミイラが保管されているとのことです。
まとめ
ハンガリーの歴史は、侵略者との戦いの歴史でもあります。そのなかで、敵に容易に屈服せず、あくまで自己をつらぬく強さが印象に残るのもハンガリーの特徴といえましょう。表面上は従っていても、強者の思い通りにはならない芯の強さが感じられます。興味を持った方は、ぜひ書籍などでハンガリーについて調べてみてください。
参考文献
ヤーノシュ・サーヴァイ『ハンガリー』南塚信吾・秋山晋吾訳 白水社 1999年.
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