ストア派の哲学ほど生活に密着した哲学はありません。それは抽象的な議論の集積ではなく、すぐにでも生活に役立てられる実学なのです。
ストア派の本を手に取る人々の思いはひとつです。
人生、いかに生きるべきか?
この大問題と真摯に向き合う人だけが、ストア派に入門する資格があるといえましょう。そのストア派を理解するために最適な本、それが「ストア派哲学入門」です。今回はこの名著をご紹介します。
「ストア派哲学入門」とは
これはアメリカのライアン・ホリデイとスティーブン・ハンゼルマンの共著で、ストア派の哲学者たちの名言と著者のコメントを366のセクションにまとめたものです。
1日1項目読めるように1月1日からの日付もついています。つまり、毎日ひとつずつストイックたちの名言と著者のコメントが読める形式です。
おもに引用されるのはエピクテトスやマルクス・アウレリウス、セネカなどです。最初から読み進めてもいいですし、あるいは好きなところを拾い読みするかたちでも構わないわけで、読者にとっては気軽にそして自由にストイックたちの言葉に接することができるわけです。
本の内容に入る前に、ストア派について少し説明しておきます。
ストア派とは?
教科書的には、ストア派は紀元前3世紀ごろ、アテネでゼノンによってはじめられた哲学のグループです。
論理学、倫理学、そして自然学を主な考察の対象とし、とくに倫理学においてストア派の面目は大いに発揮されるといっていいでしょう。
現在でもストア派の哲学が支持されるものを持っているとすれば、それはひとえに、ストア派のきわめて実践的な性格によるのです。
著者のライアン・ホリディによれば、NFLのコーチ陣やラッパー、キャスター、ヘッジファンドマネジャーや企業幹部など多種多様な人々がストア哲学を学んでいるとのことです。また、「悪魔の辞典」で有名なアンブローズ・ビアスも、若い作家たちにストア哲学を学ぶことをすすめていたそうです。
意外な支持の広がりに驚きますが、なにはともあれ、つたない説明はあとにしてストイックたちの名言に接してもらいたいと思います。ストイック自身にストイシズムを語らせる方がはるかに雄弁だと信じるからです。
ストア派の哲人たちの名言
著者のライアンは、ストア派の哲学の原則を次の3つに要約しています。
一 ものの見方:周りの世界をどのように見て、受け止めるか
「ストア派哲学入門」 はじめに
二 行動:何のために、どんな決定を下し、どんな行動をとるか
三 意志:自分の力では変えられない物事に、どのように対処すれば曇りのない、納得のいく判断を下すことができるか。そして世界における自分の立ち位置を正しく理解できるか
本書はこの3つに従って名言が分類されています。それぞれのパートの名言を紹介しましょう。
ものの見方
不安げな人を見ると不思議に思う。いったい何を欲しているのだろう、と。自分の力の及ばないものを欲していたのでなければ、どうして不安に襲われようか
エピクテトス『語録』
「ストア派哲学入門」 2月3日
エピクテトスは奴隷だった過去をもつ哲学者です。現代のように人権に対する配慮のない時代に、彼は辛酸をなめたに違いありません。
その過酷な経験が、彼を見事なストイックに変えました。エピクテトスの哲学の神髄は、自分がコントロールできるものとできないものをはっきりさせること、これです。
上記の引用でいえば、何を欲しているのか自分自身に悟らせること、それが自由になる第一歩だということです。
自己のコントロールを目指す。これがストイックたちのテーマです。結局、不自由とは、他人や環境に振り回されることなのですから。
自分のものの見方に絶えず注意せよ。君が守っているのは小さなものなどではなく、君の自尊心、信頼、安定、心の平穏、痛みや恐れからの解放、つまりは君の自由なのだから。いったい何と引き替えにそれらを売り渡そうというのかね?
エピクテトス『語録』
「ストア派哲学入門」 2月12日
正気に返って自分を取り戻せ。眠りから覚めて、悪夢にうなされていただけだと気づくように。さあ目を覚まして、しかと見よ。お前を悩ませているものは、そうした夢と変わらないのだ
マルクス・アウレリウス『自省録』
「ストア派哲学入門」 2月15日
ここでエピクテトスとともに登場したマルクス・アウレリウスについては、歴史の教科書で知っている方もいるでしょう。
五賢帝のひとりであり、ローマ皇帝という栄華の頂点を極めた人物でありながら、質素・倹約そしてきびしい自己鍛錬の生活を貫いた稀有な人物です。
エピクテトスは奴隷にして哲学者ですが、マルクス・アウレリウスは皇帝にして哲学者という、非常に珍しいパターンです。
そして、上記2つの引用に共通しているのは、心を乱すものについてのストイックたちの認識です。それは常に幻であり、現実には存在しないものなのです。
私たちは一度立ち止まって自分に尋ねてみるべきです。自分が悩んでいる問題は、じつは自分で作り上げた幻想ではないのか、と。自分を追い込んでいるのは、自分の幻想なのではないか、こう疑ってみるのも必要なことです。
繰り返しますが、ストイックたちが求めているのは、自由です。そして自由とは、自己のコントロールです。そのための第一歩が、夢から覚めることです。夢を見ているのを自覚すること、ここからすべては始まります。
行動
まず自分自身に、どんな人間になりたいか言って、それからなすべきことをしたまえ。ほとんどどんな活動でも、これは真理であるように思える。運動をしたい人なら、まずやりたいスポーツを選んでから、それに励む
エピクテトス『語録』
「ストア派哲学入門」 5月2日
認識のつぎに続くのは、行動です。目覚めたら、歩き出さなければなりません。
上記のエピクテトスの言葉はシンプルなものですが、それだけに多くの人に見過ごされるものだとも言えます。当たり前の言葉ほど見向きもされないものだからです。
「そんなことはわかっている」という意識と、実際に行動に移すこととの間には無限の隔たりがあります。
じつは、行動とは、一種の飛躍なのです。認識と行動は、同じ次元の問題ではありません。まったく別次元に属することです。
知ってはいても行動に移さない人がいかに多いか。その理由はここにあります。
エピクテトスの忠告に従って、どんな人間になりたいか、まずは言葉にしてみるのも大切なことです。自分にも他人にも宣言すること。自分が怠惰な人間だと感じるなら(多くの人は怠惰なものです)、ときには自分を追い込むのも必要です。
自分にはとても無理だと思うことがあっても、不可能だとは考えるな。ほかの人間にできること、向いていることならば、お前にも簡単にできるはずだ
マルクス・アウレリウス『自省録』
「ストア派哲学入門」 6月10日
この言葉は素直に信じるのが得策でしょう。迷ってはいけません。
自分にできるかできないか、やる前にどうしてわかるのか。やってみなければわからないではありませんか。
不可能だ、とあきらめた時点で物事は確実に不可能になってしまうものです。
キュウリが苦い? ならば捨てよ。道に 茨 がある? ならば避けよ。それで十分だ。不快なものの存在をなぜ思い悩むのか。そんなことでは、自然を究めている者に笑われるぞ。大工や靴屋だって、仕事場の床におが屑や木っ端が落ちているのをとがめられたら、大笑いするだろう。ただし、そうした職人たちは不要なものをごみ入れに捨てるが、自然にはそんなもの必要ない
マルクス・アウレリウス『自省録』
「ストア派哲学入門」 8月1日
マルクス・アウレリウスが言いたいのは、いざ行動を開始したなら、多少の障害があろうとも決して歩みを止めるな、ということでしょう。
とかく物事はスムーズに進まないものです。くじける理由を探すなら、そこら中に見つかります。もうやめようと自分を納得させるのはカンタンなのです。歩み始めたら、行けるところまで行きましょう。
そして、この言葉は、行動を始めたなら貫徹する意思が必要であることも示唆しているのです。つぎに見ていくのは意志についてのストイックたちの態度です。
意志
諸君、哲学者の教室とは病院であるーここは楽しむ場所ではない、苦しむ場所だ。諸君は健康ではないからここへ来たのだ
エピクテトス『語録』
「ストア派哲学入門」 9月2日
哲学を学ぶということは、すでに病気である証拠なのかもしれません。病気であるからこそ健康を求めて人は哲学に近づくのかもしれません。
ただ、このエピクテトスの言葉からは、哲学者としての自信も感じられます。君たちの病気を治してやろう、そのためのメソッドと経験は十分積んである。ただし、ここは厳しい場所だ、とでも言いたげです。
エピクテトスにとって哲学はファッションでもなければ知的娯楽でもないのです。それは修養なのです。なんのための修養か。善く生きるため、自由になるためです。ではどうやって病気を治療していくのか。次の言葉は、そのヒントになるものです。
死でも追放でも、恐ろしく思えるものは何でも、毎日眼前に思い浮かべよ――そうすればけっして卑しい考えを起こさぬであろうし、行きすぎた欲望も抱かぬであろう
エピクテトス『提要』
「ストア派哲学入門」 12月5日
「死」について考えること、それがストイックの方法のひとつです。
ストイックにとって人生は一種の戦いであり、人間はそこで全力で生き抜いていかなければなりません。
上記の言葉でエピクテトスは「卑しい考え」と「行きすぎた欲望」を戒めています。なぜなら、これらによって人間は自己のコントロールを失うからです。
コントロールを失えば、世界で戦っていくこともできないわけです。ストイックたちは他人も環境もあてにはしません。依存というものとは無縁です。自分ができることに全精力を傾注すること、そうすることで開ける道があります。
エピクテトスが奴隷であったことを思い出してください。彼は不自由ということを骨身にしみて知っている男です。石にかじりついてでも、という執念すら感じます。奪われることの辛さを誰よりも知り尽くした男だからこそ、彼の言葉には説得力があるのです。
「永遠に生きる身であるかのように振る舞うな。避けがたい運命が君の上にかかっているのだ。生きているうちに、それができるうちに、今、善き人間になれ」
マルクス・アウレリウス『自省録』
「ストア派哲学入門」 12月6日
だれも永遠には生きられません。いつか、宿命のときがやってきます。
それは明日かもしれないし、ひょっとしたら今日かもしれません。
運命論者でなくても、誰もが心のどこかでそう感じているに違いありません。
「できるうちに」行動しようではありませんか。「今」やろうではありませんか。
よく言われるように、人間の致死率は100%です。誰もこの運命を避けることはできません。道はすでに決まっています。マルクス・アウレリウスの忠告通り、「善き人間」を目指そうではありませんか。
いかに生きるべきか
もう明白でしょうが、この問いに答えられるのは、他人ではありません。自分自身でその都度、答えていくしかない問題なのです。
そのためには理性だけでは足りません。石にかじりついてでも生きていくという執念深さも必要なのです。
そこまで執念深くはなれない、というのが一般的な感想でしょう。しかし、ストイックたちも繰り返し説いているように、訓練こそが強い自分を作ります。
はじめから強い人間などどこにもいない、これがストイックの立場です。強く生きるための方法論として、ストイシズムが不滅である理由もここにあります。ぜひ本書をひもといて、ストア派の哲学に触れてみてください。
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