気持ちが落ちこむのは、誰にでもあります。どうやって気持ちを切り替えればいいのか、方法が見いだせないほど深刻な場合もあります。
今回は、そういった状況からどうやって脱出すればいいのか、いくつかのヒントを仏典から探ろうと思います。
参考にした文献は、「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村 元 訳 岩波文庫 です。それではさっそく見ていきましょう。
過ぎたことにこだわるな
人間は誰しも失敗するものです。人間関係で、学校で、あるいは仕事で。ときには、眠れないほど失敗が頭を離れないときもあります。一種の監獄に閉じ込められたような気分でしょう。
こういった心の状態から脱したいのはやまやまですが、どうしたらいいのかわからない。そんなときが誰にでもあるものです。
そんなときは、ひとまず立ち止まってこう問いかけてみることも大切です。ひょっとして自分は、失敗を悔やむことで自分を甘やかしているのではないか。失敗にかこつけて、傷をなめていたい気持ちはないか。
心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
「ブッダの真理のことば・感興のことば」 p15
前向きになれないのは、心がそう欲しているからです。後ろ向きのままでいたいのです。
誰かを責めたてたいのかもしれません。他人を責められないからこそ、自分を責めるのかもしれません。
いずれにしても、誰かを責めたい気持ちが自分自身に向かうという志向性に気づくことが重要です。自分を追い込んでいるのは自分自身であることに気づけば、自由になる道筋も見えてくるのです。
「自分」という意識が苦しみのもと
「自分」にこだわることをやめたとき、人は真の自由を手に入れるものです。
この「自分」という意識が、知らず知らずのうちに私たちにとって牢獄となります。自分のイメージした「自分」、他人がイメージしている「自分」、「自分」の正体は、こういった実体のない言葉にすぎません。
もし、あなたの後悔の原因が、他人を傷つけたことにあるなら、謝罪するのをためらってはいけません。謝罪をためらわせているのは、「自分」に対するこだわり以外のなんでしょう。
「自分」を固定したものとしてみること、そして「自分」の所有に執着すること、これらは仏典の忌避するところです。
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自分を追い詰めているのは、実は自分自身だということを理解しましょう。
他人はそこまであなたに関心を持っていません。
自分を裁いているのは、実は他人の目を借りた自分なのです。他人の価値観が内面化したものといっていいでしょう。自分の人生を取り戻さなければなりません。
自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
同 p32
自分を裁くのはやめて、自分を守り、育てていくことを始めるべきなのです。
知ることからコントロールが始まる
自分の心を観察するのは難しいことです。
心は、さまざまな情念が登場しては退場する舞台です。ひとしきりわめきたてた怒りも、しばらくすれば収まってしまいます。
そうなれば、一体何に怒っていたのかわからなくなってしまう経験をしたことがあるでしょう。
自分のコントロールと一口に言っても、それがいかに困難であるか、私たち自身がよく知っています。
コントロールのためには、長い時間を必要とするのです。すぐにできるものではありません。そのことを頭に入れて、まずは認識することから始めましょう。
もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ「愚者」だと言われる。
同 p19
同じようなことをアリストテレスも「ニコマコス倫理学」のなかで書いています。愚者である現実を受け入れて、日々努力していく謙虚さこそ、なによりも必要なものでしょう。
認識は、あくまでスタート地点にすぎません。ここから長い道がはじまるのです。到達、ということはありません。常に右往左往する、というのが実情に近いでしょう。
しかし、暗闇をさまようにしても光は必要です。その光となるのが先人たちの言葉です。一人で悩むのではなく、先人たちの言葉に注目することで、新たな道が開けてくるのではないでしょうか。
まとめ
大切なのは習慣化です。そして習慣化は時間がかかるものです。悪い癖を矯正するのも時間がかかりますし、善い習慣を身につけるのもそうです。過ぎたことにこだわる癖がついていないかどうか、自問してみる必要があります。
そして、もしそういう傾向があるなら、矯正を始めなければなりません。修正していかなければ、いつまでたっても同じことを繰り返すからです。
古い自分から自由になること、自分を更新していくこと、これが大切なのです。
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