人は幸福にならねばならない エピクロスの哲学に学ぶ

哲学

人は生まれたからからには幸福にならねばなりません。生まれなかった方が良いという議論も散見しますが、生まれてしまった以上、そんなことを言ってみても始まらないのです。

私たちは幸福になるべきなのです。そして、その方法を説いたのがエピクロスです。古代ギリシャのヘレニズム時代に活躍したエピクロスに今回は注目します。

彼の哲学が古典として現代まで残っているのにはそれ相応の理由があるはずです。古代の賢人の知恵を私たちも利用できるはずではないか、そんな思いでエピクロスをひもといていきます。

なお、本書の引用はすべて 岩波文庫「エピクロス ー教説と手紙ー 」からのものです。あらかじめお断りしておきます。

エピクロスとは

エピクロス(BC342/341~BC271/270)は古代ギリシャの哲学者で、快楽主義を説いた哲学者、というイメージで見られがちな人物でもあります。事実、英語の Epicurean という単語はエピクロスからきていますが、意味はズバリ「快楽主義者」です。

しかし、ここで注意しておきたいのは、エピクロスが「快」の重要性を説いたのは事実ですが、快楽の追求こそが人生のすべてと説いたわけではありません。エピクロスは Epicurean ではあっても、Hedonist ではないのです。

彼が説く「快」というのも実につつましいものです。この点はあとで詳しく見ていきます。

エピクロスの「快」と一般の「快楽主義」との内容には相当の違いがあるのです。一般の「快楽主義」というのは Hedonism を指すと思いますが、快楽だけを目的とする Hedonism ほどエピクロスから遠いものはありません。

では、エピクロスの哲学とは一体どんなものなのか、彼の宇宙観・自然観から見ていくことにしましょう。

端的にいえば、彼は唯物論の系譜に属する哲学者です。少し具体的に見ていきましょう。

エピクロスの自然観

エピクロスの自然観は、「ヘロドトス宛の手紙」「ピュトクレス宛の手紙」の二つの作品におさめられています。前者は一般理論、後者は具体例といった趣です。

重要なのは「ヘロドトス宛の手紙」の方ですので、こちらからエピクロスの自然観を拾い上げてみましょう。

エピクロスが自然について考察するときに準拠する原則がいくつかあります。まず、

・有らぬものからは何も生じない

そのため、

・全宇宙は不生不滅である

上記の結論が導かれます。「有らぬものからは何も生じない」からです。さらに、

・宇宙は「物体と場所と」である

エピクロスは「空虚」な場所の存在も認めています。なぜなら、「空虚」がなければ物体の運動もないだろうからです。「空虚」があればこそ「運動」が可能だとエピクロスはいいます。

こういったエピクロスの自然観からもうかがえるのは、彼が自然の観察において「感覚」を重要視している点です。実際、彼はこう書いています。

われわれは、確証の期待されるものや不明なものごとを解釈しうる拠りどころをもつためには、すべてを、感覚にしたがってみるべきである。端的にいえば、精神での把握にせよ、いずれの感覚的判定機能での把握にせよ、現前する直覚的把握にしたがってみるべきである。

p11

では、エピクロスが感覚というとき、具体的にどのようなものを想定していたか、つぎに見ていきましょう。

感覚の重要性

エピクロスは感覚の代表として、次の3つをあげています。つまり、「視覚」「聴覚」「嗅覚」です。

では、これら3つの感覚がどうして事物を感知できるのか、エピクロスはどのように考えていたのでしょうか。

エピクロスの理解では、この3者が成立するためには、何かの粒子の存在が大前提となります。

つまり、「視覚」が成立するためのは「何か」が目を通して私たちに入ってくるからです。「聴覚」や「嗅覚」も同様です。

「何か」の粒子がそれぞれの感官を刺激して感覚が生じるとエピクロスは考えます。感覚に対するこの見方は、必然的に「原子論」へと導かれるのです。

エピクロスの原子論は「ヘロドトス宛の手紙」に述べられています。それによれば、エピクロスの考える原子は私たちが理解している原子のイメージとは少々異なります。エピクロスによれば、原子は不消滅の存在であり、それぞれの原子によって大きさが異なり、上下の運動を行う存在です。

霊魂について

エピクロスは霊魂も何らかの物体であると考えています。霊魂を物体ではない何か、と仮定すれば物質以外の存在を認める二元論になってしまいます。

エピクロスはその点、唯物論者として筋を通しているといえるでしょう。エピクロスは書いています。

すなわち霊魂は微細な部分から成り、全組織にあまねく分散しており、熱を或る割合で混合している風に最もよく似ていて、或る点では風に、或る点では熱に似ているところの物体である。

p28

エピクロスの見解が正しいかどうかは別として、きわめて興味深い意見です。「熱に似ているところの物体」とは言い得て妙です。

だからこそ、肉体が滅びれば霊魂もともに滅びるわけです。エピクロスが考える非物体的なものとは、「自体的」なものだといいます。

「自体的」とは、「それ自体で独立に存する」もののことで、エピクロスが「自体的」という概念でイメージしているのは「空虚」しかありません。

物体の運動を可能にする「空虚」つまり空間です。霊魂もまた「自体的」なものではありえないのです。こういったエピクロスの存在論から彼独特の倫理学が導き出されます。今度は自然から人間へと目を転じ、エピクロスの倫理学を見てみましょう。

エピクロスの倫理学

エピクロスの倫理学は「メノイケウス宛の手紙」に見ることができます。短い手紙ですが、エピクロスの思想を知るために重要な作品です。以下、彼の思想をひもといていきましょう。

哲学とは

エピクロスにとって哲学とは、「霊魂の健康」を得るために、また「幸福を得る」ために欠かせないものです。哲学とは「知恵の愛求」のことであり、「知恵の愛求」には若いも年寄りも早いも遅いもない、とエピクロスは繰り返し述べています。

また、エピクロスは唯物論者ですが、現代の唯物論者とは違い、神々についても自己の世界から排斥しない懐の広さがありました。彼は唯物論者ではあっても無神論者ではないのです。

そして重要なことは、エピクロスにとって哲学は暇つぶしの道具ではなく、「善く生きる」ために必須の学問だったことです。この点でエピクロスもまたソクラテス以来のギリシャの伝統に掉さす存在だったといえるでしょう。

では、どう生きれば「善く生きる」ことになるのでしょうか。エピクロスによればそれは「美しく」生きることであり、「幸福を得る」ことでもありました。ここに彼の哲学の本質があります。その点を明らかにする前に、エピクロスの有名な「死」についての議論を片付けておきましょう。

「死」を恐れる必要はない

エピクロスは書いています。

死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死が感覚の欠如だからである。

p67

また、こうも言っています。

死はわれわれにとって何ものでもでもない。なぜなら、分解したものは感覚をもたない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである。

p75

人間の認識が感覚を基礎としているのは疑問の余地はありません。「死」によって私たちの感覚が失われるなら、「死」は存在しないも同然であるという議論です。

エピクロスの議論は「死」そのものについてのものというより、「死」の想念に悩まされる人々を落ち着かせるためのアドバイスのようなものでしょう。

エピクロスの目的は、「死」についてあれこれ思い悩むのはやめて、生きることに専念した方が良いと励ましているようにも受け取れます。

「死」は所詮、ただの言葉にすぎないのです。

ここにもエピクロスの哲学の特徴がよく表れています。彼の目的は、「善く生きる」こと、そして「幸福を得る」ことでした。考えてもしょうがないことはとりあえず棚上げしておきなさい、という現実的な忠告なのです。

「快」とアタラクシア

エピクロスは「快」を善いこと、「第一の生まれながらの善」としていますが、すぐに「どんな快でもかまわずに選ぶ」べきではないと付け加えています。当然です。一時の「快」が、やがてより強い「苦しみ」をもたらすかもしれないことを私たちは経験で知っているからです。

逆に、「苦しみ」であっても、かならずしも避けるべきとは限らないことも私たちは知っています。エピクロスも同様です。彼がいう「真の快」とは、「道楽者の快」でも「性的な享楽」でもありません。「真の快」は「平静であること」(アタラクシア)なのです。彼は書いています。

平静な心境の人は、自分自身にたいしても他人にたいしても、煩いをもたない。

p102

つまり、もはや自己も他者も用はない、という境地です。まるで仏教の涅槃のようですが、実際、エピクロスの静寂な態度は多分に仏教的です。

この魂の静寂を尊ぶエピクロスの姿勢が正しく理解されなかったのは当然といえるでしょう。彼の唯物論的見解もその誤解に拍車をかけました。感覚を重視し、「快」が第一の善であるとする哲学が誤解をうまないわけがないのです。

多くの人々は、享楽こそが人生の目的であると安易に受け取ったわけで、エピクロスはその弁明につとめなければなりませんでした。

享楽ではなく、魂の平安が重要なのだ、目先の「快」ではなく、「真の快」を求めるべきだ、そしてそれを見分けるには知性が必要だ、だからこそ哲学に勤しまなければならない。。。こういった議論が享楽に身をゆだねる人々に聞こえるわけもないのです。

エピクロスは同時代だけでなく、後世の誤解にもさらされる運命だったのです。

まとめ

現代では、エピクロスの著作を読んで勇躍して享楽に励む輩もいないでしょうが、といってエピクロスを信じてアタラクシアの実践に励む人もいないでしょう。

しかし、エピクロスを虚心に読めば、私たちの人生をよりよくするヒントが多くみつかると思います。

彼の唯物論と有神論が矛盾なく彼の中で同居できたのは、現代人から見れば思考の不徹底に見えるかもしれませんが、あるいは実際に不徹底だったとしても、その方が「善く生きる」うえで有用なのかもしれないのです。私たちはさまざまな角度から今一度エピクロスを見なおしてみる機会をもってもいいのではないでしょうか。

エピクロス: 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)
エピクロス: 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

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