論語は学校でも習いますが、読み通した人は少ないのではないかと思います。
これは翻訳の問題も大きく関係しているのではないでしょうか。「論語」は漢文で書かれていますが、そもそも漢文というのは古代中国語の書き言葉です。わたしたちにとっては外国語なのです。
わたしたちは、読み下し文という特殊な読み方で「論語」に接していますが、この習慣も「論語」をよそよそしいものにする原因になっているように感じます。
孔子を現代によみがえらせるには、生きた日本語に翻訳するべきなのです。
今回は、その難事業にチャレンジした注目すべき仕事をご紹介します。「論語」をより身近に感じるよすがとなるすばらしい仕事です。さっそくご紹介しましょう。
高橋源一郎「一億三千万人のための『論語』教室」
小説家の高橋源一郎氏が「論語」を翻訳する。正直、意外な印象を受けました。
「論語」の愛読者といえば保守派や復古主義者、そんな思い込みがあったからです。
こういう偏見を持たれるのも「論語」の不幸なところです。右派や左派を問わず、孔子は都合のいいように利用される傾向があります。偉大な人物の宿命といえましょうか。
あらゆる政治的な立場に利用されるからこそ、偉大だということにもなりそうです。
私たちが心がけるべきは、「論語」そのものに心をひそめることです。偏見を廃し、自分を捨て、ひたすらに孔子の言葉に耳を傾けた者にのみ、「論語」はその真の姿を垣間見せてくれるのです。
高橋源一郎氏の仕事がその見事な成果とはいいませんが、少なくともその志は多としたいと思います。
翻訳の実例
高橋氏の翻訳の実例をご紹介しましょう。
子曰く、巧言令色には、鮮いかな仁
まずは有名な文句からいきましょう。学而篇から引用します。
子曰く、巧言令色には、鮮いかな仁
有名な文句ですね。口がうまく表情が豊かな人というのは、概して心が冷たい人だ、ぐらいの意味でしょうか。高橋氏は以下のように翻訳します。
センセイはこうおっしゃった。
「くれぐれもいっておきますけど、猫なで声でしゃべる人とへらへら笑ってる人にだけは気をつけるように。そんな人には『仁』なんかありません。たいていバカですよ。というか、バカ以下です、ふつう」
「一億三千万人のための『論語』教室」 p18
「子曰く」を「センセイはこうおっしゃった」と訳すのも案外いいかも、と思わせます。
くだけた感じで訳してるので孔子がより近い存在に感じられるのではないでしょうか。
かつて魯迅は中国の民衆は孔子に親しまないで敬して遠ざく、という意味のことをどこかで書いていましたが、日本も中国ほどではないにしても事情は似たようなところがあります。
孔子を尊崇するのは知識人が主だからです。富裕層といっていいでしょう。論語をそういう人たちに独占させるのはもったいないとつねづね感じていましたが、論語を普及させるにはやはり画期的な現代語訳が不可欠です。
本書はそのささやかな、しかし勇気のある試みのひとつなのです。
君子は器ならず
為政篇にある短い文句です。
「器」というのは祭祀で供物を盛る器のことです。
君子はそういうものであってはならない。そういう孔子の感想です。高橋氏の翻訳を見ましょう。
よく聞いてくださいね。あなたたちは、なにも考えず人に使われてるだけの道具じゃないんです。人間なんですから、自分の頭で考えてなにごともするようにしてください
「一億三千万人のための『論語』教室」 p42
なるほどと思いますよね。孔子の意をつくしたすばらしい翻訳だと思います。
孔子の精神を現代によみがえらせるためには、やはり文語体だけでは不十分です。すぐれた口語訳が必要です。
子曰く、民はこれに由らしむべく、之を知らしむべからず
これも有名な言葉ですね。民衆というのは従わせることはできても、理解させることはできない。
孔子のリアリストたる一面をあらわすと解説されたりする一節です。この有名な言葉もつぎのように翻訳されます。
いいですか、よく覚えておいてください。政治は、民衆を熱狂させ、支持させることはできます。だが、できるのは、ただそれだけです。決して、民衆に、それがほんとうはどのようなものなのか、なにが起こっているのか、その本質はなんなのかを理解させることだけはできないのです。ほんとうは、そのすべては民衆のためのものであるはずなのに。悲しいことですが
「一億三千万人のための『論語』教室」 p199
少しセンチメンタルすぎるでしょうか。
でも私はこの翻訳が好きです。論語の泰伯篇にあるこの言葉を読むたびに高橋氏の翻訳を思い出すことになるでしょう。
残念そうにつぶやく孔子を想像するのは現代的すぎるかもしれませんが、私はこの翻訳を推します。
首をかしげる部分も
すばらしい現代語訳である本書にも、おやと首をかしげる部分もないわけではありません。
現代語訳の瑕疵というよりも、少し理解に苦しむ部分があるのです。
もちろん読者によって感じ方はさまざまですから気にならないかたもいるとは思いますが。
私が気になったのは学而篇の11番。引用しましょう。
子曰く、父在すときは其の志を観、父没すれば其の行を観る。三年父の道を改むることなし。孝と謂うべきなり。
この文章を以下のように訳しています。
親孝行の具体的な例を話してみましょう。まず、お父さんが生きているときは、なんでもお父さんのいう通りにしてあげましょうね。それから、お父さんが死んでしまったら、生きていたときになにをしていたか、どんな人だったか思い出してあげるんです。その上で、ですけど、三年間はお父さんが生きていたらやっただろうなと思うことだけをやるんです。そんなの奴隷じゃないかと思うかもしれないけど、ほんとに子どもは親の奴隷なんですよねえ。でも、『孝』ってそういうものだから我慢してくださいね
「一億三千万人のための『論語』教室」 p25
著者はこのように訳したあとにこうつけ加えます。
(金正日さんはこの(11)をちゃんと守っていたようだ。すごい。孝の人!)
「一億三千万人のための『論語』教室」 p26
現代語訳にも違和感を感じますが、このコメントはあまりに唐突に金正日が登場したので面食らってしまいました。
実際に金正日が3年間金日成のやり方を変えなかったのかどうか知りませんが、それは政治的な問題であって「孝」の問題ではありません。
あるいは、北朝鮮が父のやり方を3年遵守するのが「孝」とみなされ賞賛を集めるような社会なのかもしれませんが、いずれにしても政治的行為であって道徳とは無関係です。
著者が修身斉家治国平天下の理念を信じるガチガチの儒教徒なら話は別ですが、いずれにしても金正日が「孝」の人として賞賛されるコメントというのは唐突です。
さらに肝心の現代語訳ですが、「子どもは親の奴隷」と訳すのはいかがなものか。
しかも論語にはこの文句に該当する箇所がないのでこの文句は高橋氏の見解ということになります。
「子どもは親の奴隷」かどうかというのはひとまず置くとして、この訳は論語の精神に合わないように感じます。
少なくとも孔子はそこまでつき詰めて考えていたわけではない。「父の道を改むることなし」そういう人が「孝と謂うべきなり」と言っているまでです。
「子どもは親の奴隷」などと考えているわけではありません。あくまで高橋氏の見解というべきでしょう。
ちなみに、この「孝」という概念は孔子の弟子以降いよいよ窮屈なものに固定されてしまって、非人間的な様相を呈してきます。「孝経」などはその典型的な例で、人の親となって読んでみるとまるで興味がもてない。ひとを縛り付けるただのイデオロギーにすぎません。
さらに言えば、この「孝」の観念では子どもを虐待する親を批判する原理を引きだすことができません。このイデオロギーが蔓延した社会では子どもを救うことができなくなります。
もちろん著者もそんなことは望まないでしょうが、読者に違和感を感じさせる部分であるのは事実です。
まとめ
古典の現代語訳は万人を納得させることはできません。それほど難しいものです。
高橋氏の現代語訳論語も多少の瑕疵はまぬがれません。
しかし、この難しい課題にチャレンジしたその勇気を私は買います。面白く読める論語なんてめったにあるものではありません。高橋氏の完全訳とともに、論語を読み通す旅にでかけてはどうでしょうか。
コメント