今回は、「チャタレイ夫人の恋人」で有名なD.H.ロレンス(1885~1930)のエッセイを紹介します。
ロレンスの思想を知るためには必読の書です。日本では福田恆存の翻訳で広く知られ、福田の思想にも大きな影響を与えました。
つまり、ロレンスのみならず、福田恆存の思想を理解するためにも「黙示録論」は重要なのです。本書はロレンスの絶筆でもあります。
本書でロレンスが訴えたかったことは何か、詳しく見ていきましょう。
なお、「黙示録論」の引用は中公文庫版によったことをお断りしておきます。
「黙示録論」とは
ロレンスの「黙示録論」は新約聖書におさめられている「ヨハネの黙示録」についてのエッセイです。
「ヨハネの黙示録」とは、パトモスのヨハネと呼ばれる人物が物した終末のヴィジョンに満ちた預言書のことです。
「黙示録」を書いた「ヨハネ」という人物は、長い間「ヨハネによる福音書」を書いた「ヨハネ」と同一人物とされてきましたが、ロレンスはそれを否定しています。
同一人物が書いたとは思えない、というのです。
試みに「黙示録」から引用してみましょう。「黙示録」がどんなタイプの書物なのか、よくわかると思います。
この故に、さまざまの苦難、一日のうちに彼の身にきたらん、即ち死と悲歎と饑饉となり。彼また火にて燒き盡されん、彼を審きたまふ主なる神は強ければなり。彼と淫をおこなひ、彼とともに奢りたる地の王たちは、其の燒かるる煙を見て泣きかつ歎き、その苦難を懼れ、遙に立ちて「禍害なるかな、禍害なるかな、大なる都、堅固なる都バビロンよ、汝の審判は時の間に來れり」と言はん。
黙示録 18章8~10
我また天の開けたるを見しに、視よ、白き馬あり、之に乘りたまふ者は「忠實また眞」と稱へられ、義をもて審きかつ戰ひたまふ。彼の目は焔のごとく、その頭には多くの冠冕あり、また記せる名あり、之を知る者は彼の他になし。彼は血に染みたる衣を纏へり、その名は「神の言」と稱ふ。天に在る軍勢は白く潔き細布を著、白き馬に乘りて彼にしたがふ。
黙示録 19章11~14
このおどろおどろしいイメージに埋め尽くされたのが「黙示録」といっていいでしょう。
それは終末のヴィジョンです。
この世の終わり、神の裁きが実現する日の阿鼻叫喚の世界です。地が裂け、星が墜ち、川の水は沸騰し、解き放たれた御使いが人類を殺戮する。キリストを信じる正しいもののみが、キリストとともに千年王国を継承する。
4福音書の「愛」を説くイエスとはまるで違うイメージに、読者は面食らうはずです。
ロレンスも「黙示録」には幼いころから反発を感じていた一人でした。ロレンスによれば、「黙示録」のイメージはまず「詩情に乏しい」ものに映りました。
それは、「まったく一人よがりなものであり、ときにはまったく醜悪でさえある」ものだったからです。
「黙示録」が文学としてまず洗練されていない、とロレンスは言うのです。
それだけではありません。
ロレンスをして「黙示録論」を書かせたのは、「黙示録」に満ち満ちている暗い情念をロレンスが感じ取ったからでした。
それは一言でいえば、「権力欲」です。
「愛」の宗教であるキリスト教に紛れ込んだ「権力」への志向、それが「黙示録」のテーマであるとロレンスは言います。
そしてそれは弱者の宗教でもある、というのがロレンスの理解です。
ロレンスは書いています。
ここで問題にしているのは、政治的党派のことではない。人間精神の二つの型を言うのである。己れの魂の強さを感じている人間と、逆に己が弱さを感じている人々とである。
黙示録論 p37
ここで、「己の魂の強さを感じている人間」とはイエスやパウロのことであり、「己が弱さを感じている人々」とは黙示録の作者・パトモスのヨハネのことです。
イエスやパウロは強者でした。
だからこそ、他者に対する「愛」や「諦念」を教えることができたのです。
しかし、パトモスのヨハネは違います。
「己が弱さを感じている人々」が求めているのは「愛」や「諦念」ではありません。
地上で力を手にしている人々を倒すこと、そして自分が取って代わること、それが弱者が求めているものなのです。
ロレンスは書いています。
ここにおいて、宗教は、ことにクリスト教は二元的相貌を具えることとなった。強者の宗教は諦念と愛を教える。が、弱者の宗教は強きもの、権力あるものを倒せ、而して貧しきものをして栄光あらしめよと教えている。
黙示録論 p37
そして、「黙示録」こそ、「弱者の宗教」の要望に応えているというのがロレンスの理解です。
なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。
人間とはそういうものだ、といってしまえばそれまでですが、ロレンスは人間の二つの側面に注意を促しています。
それは「個人的自我」と「集団的自我」という二つの側面です。
以下、この二つの概念について見ていきましょう。

「個人的自我」と「集団的自我」
「愛」と「諦念」を説く強者と、「権力」を志向する弱者という区別は少し図式的にすぎるかもしれません。
しかし、こういった要素は多かれ少なかれすべての人に見いだせるはずです。
強者としての側面と、弱者としての側面との二つです。
ロレンスは前者を「個人的自我」、後者を「集団的自我」という言葉で把握しています。
そして、「個人的自我」は私たちの自我のなかでほんのわずかな部分を占めているに過ぎず、多くは「集団的自我」の広大な領域が広がっている、とロレンスは言います。
「個人的自我」は自己を個人として完成させようとする側面であり、「集団的自我」は他者との支配・被支配のなかで自己を実現しようとする側面といえるでしょう。
イエスや仏陀やプラトンの教えに満足する「個人的自我」の部分はきわめて小さなものであり、その教えに満足する人間はごく限られた人々、つまり「精神的貴族」なのです。
そして、「個人的自我」で満足する人々は、もう一つの広大な側面、すなわち「集団的自我」の部分をあえて無視してしまっている、そうロレンスはいいます。
イスカリオテのユダがイエスに口づけをもって裏切ったエピソードはそのことを象徴しています。
この「集団的自我」をしかるべき場所に位置付けない限り、人間の自我は安定しません。
イエスや仏陀のような強者はあえて「個人的自我」の完成にのみ邁進し、「集団的自我」の部分を切り捨てにかかりました。彼らが強者だったからです。
しかし、強者ならざる弱者はどうすればいいのか。
「集団的自我」の充実を求め、しかも「個人的自我」など薬にしたくもない大衆はどうすればいいのでしょうか。
新約聖書に「黙示録」が聖典として忍び込んだのも理由があることなのです。
ロレンスはそのことに理解を示しています。
しかし、あくまでロレンスは「個人的自我」の側に立つ人間です。
「愛」と「諦念」を理想とする人間です。
そのロレンスにとって、現代の国家と個人の関係はどのように映ったのか、この点を次に見ていきます。
国家とは権力であり、愛は個人のものである
「聖者」という概念はあくまで個人のものです。「個人的自我」の担当部分です。
ロレンスは書いています。
世にいかなる聖者といえどもーレニン、リンカーン、ウィルソンにしても純粋に個人の状態を保っているかぎりは真の聖者たりえたのだがーひとたび人間の集団的自我に手を触れるとき、あらゆる聖者が悪人と化せざるをえないのだ。
黙示録論 p44
「聖者」が「個人的自我」の究極の理想だとすれば、「集団的自我」の究極の理想は、やはり「国家」です。
「国家」とは権力そのものだからです。
その「国家」も強ければ強いほど良く、しかもその「国家」の階層秩序のなかで自分が位置する場所が高ければ高いほど良い。
そのとき、他人は自己の自我安定のための素材に過ぎなくなります。
他者は愛する対象ではなく、ただのモノと化すわけです。
「愛」の宗教と真っ向から衝突することになります。
しかし、「個人的自我」を純粋にすることは解決にはなりません。
人間は個人で生きてはいけないからです。山頂からの眺めは美しいものかもしれませんが、人間が生活するのは山頂ではありません。人里に下りてこなければいけません。
そうなると、完全な解決というものは不可能ということになります。
「個人的自我」と「集団的自我」という相反する特性をうまく使いこなすしかありません。
つまり妥協です。自己のなかの政治が必要なのです。
ときに「個人的自我」の部分に栄養を与え、ときに「集団的自我」の部分に餌をやってなつかせる。
あまりに「集団的自我」の部分が強くなれば、「個人的自我」が頭をもたげてくる。こういった両側面のバランスをとって生きていくほかありません。
というより、現に私たちはそうやって生きています。
少し自分を省みればわかるはずです。手を汚さずに生きている人間などいないでしょう。
その点に忸怩たる思いを抱いていたのがロレンスです。それほど彼は純粋だったといえます。
厚顔で「集団的自我」を満喫する人間がいかに多いか、私たちの周りを見ればよくわかるでしょう。
私自身としてはロレンスの潔癖にあやかりたいと思うだけです。
今回、何年かぶりにロレンスの「黙示録論」を読み返していろいろと感慨深いものがありました。
まだまだ書きたりない部分は多いですが、ぜひこの名著に目を通していただいて、ロレンスが本当に言いたかったことを感じ取ってほしいと思います。
「黙示録論」を読むには
ロレンスの「黙示録論」は文庫本で手に入ります。筑摩書房さんありがとうございます。
原書はこちら。若いころに英語の勉強と思ってぼろぼろになるまで読みました。あちこちテープで補強した本はいまも手元にあります。思い出の本ですので、なかなか処分はできません。
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