仏教はブッダの教えです。煩悩から、執着から、そして自分自身からの自由を説く高邁な思想です。
膨大な経典群には汲めども尽きぬ英知が収められています。
しかし、私たちが知る仏教が表面的な理解にすぎないとしたらどうでしょう?
ほんとうの仏教はもっとなまなましい泥臭い土壌の上に咲いた花かもしれないのです。
私たちにそのことを教えてくれる名著が 平野純著「怖い仏教」です。仏教の一体何が怖いのか、詳しく見ていきましょう。
本当はなまなましい仏教
現代に生きる私たちには想像を絶することですが、ブッダが生きたインドはそこら中に死体があふれていた世界です。
私たちが死体と接する機会はまれでしょう。「死」は私たちにとって遠い存在なのです。
現代人の多くは病院で死を迎えますが、ブッダのインドはそうではありませんでした。死体はめずらしいものではなかったのです。
きびしい暑さの北インドでは死体はすみやかに腐敗します。
ブッダはその過酷な世界で生きた人です。
「死」が身近なものであればあるほど、人は性欲への関心も深まるもののようです。「死」と「生」はまさに表裏一体のものといっていいでしょう。
「怖い仏教」では、仏典のなかからさまざまな例とともに仏教が生まれた背景を紹介しています。
きれいごとではない、なまなましい当時の現実を知ることで、私たちは仏教についてよりよく理解することができます。
死体との関係
「怖い仏教」では、仏教と死体との関係を物語るものとして「寒林」をとりあげています。
「寒林」とはなんでしょうか。
それは死体を遺棄する場所、林の空き地のことです。
「怖い仏教」によると古代インドには死体の処理方法として3つあったことを指摘しています。すなわち、
・火葬
・水葬
・野葬
以上の3つです。
火葬は説明不要でしょう。
水葬も死体を河川や海に流すことで、理解できないことではありません。
問題は野葬ですが、これが「寒林」と関係があります。
つまり死体を林のなかに捨てる風習があったのです。死体を鳥についばませて処理する鳥葬も野葬の一種といっていいでしょう。
このように死体の処理法が異なるのは、文化圏を異にする民族の混交が原因だと思われますが、ブッダが活躍したのが野葬の地域だったことは興味深いことです。
そしてブッダたちは、この「寒林」において打ち捨てられた死体が朽ちていく様を観察する修行を行っていたようです。
「怖い仏教」では、ブッダたちを「死体愛好集団」と呼んでさげすむヒンドゥー教徒の話を紹介しています。
当時でもブッダたちは異常な集団と考えられていた証拠です。弟子たちに語るブッダの言葉を引用しましょう。
おまえたちは人間という手足のついたクソ袋が、病み、老い、死んで墓場に投げ捨てられるのを観察した。おまえたちは、それをありのままに、熟練した屠畜業者のように、かれらがみずから屠った動物の各部位をみるように観察した。おまえたちがつぎにやるべきことはなにか。自分自身と向き合うことだ。おまえたちは、屠畜業者と同じ目で自分の身体を観察しなければならない。そしてまとめるのだ。(わたしのこの身体もいずれは同じ運命をたどるのであり、それをまぬがれることはできない)と。
平野純「怖い仏教」 p116
これはまさに「無常」の教えですが、ブッダの無常観には感傷的な要素は一切ありません。皆無です。そこには冷厳な事実の認識があるのみです。
事実を事実として受け止める、これがブッダの基本姿勢です。
死体が朽ちていく様を観察したブッダが説く「無常」は私たちがイメージする「無常」よりはるかに厳しいものです。
「無常」を体得したブッダは、人間の根本的な欲望に対しても容赦はしません。それは「性欲」に対してです。
煩悩があればこその悟り
ブッダとて人間です。性欲がないわけではありません。それどころか、ブッダには子どももいますし、若いころは積極的に性欲を楽しんだ形跡もあります。「怖い仏教」から引用しましょう。
やがて王子は16歳になった。国王は王子のために三つの季節ごとにそれにふさわしい宮殿を建てさせた。一つは九階建て、二つ目は七階建て、三つ目は五階建ての宮殿だった。そして四万人の舞女を王子の身辺にかしずかせた。王子は舞女たちに囲まれて神のようにそれぞれの季節をそれぞれの宮殿ですごした。ラーフラの母はかれの第一王妃だった。
同上 p73
「ジャータカ」という文章の一節だそうですが、ここで王子というのはブッダのことで、ラーフラというのはブッダの息子のことです。
「四万人の舞女」というのはあきらかに誇張ですが、若きブッダが多くの女性に囲まれて生活していたのがわかります。
実際に「ジャータカ」を読んでみると、宴のあとに疲れて眠りこける女性たちのあらわな陰部に若きブッダが吐き気をもよおすシーンがあります。ブッダは性欲にあきあきした人物なのです。
ブッダが性欲に対して厳しい態度でのぞんだのは、彼自身の経験にもとづいた嫌悪感があったからでしょう。
しかし、性欲から自由でありえたブッダはそれでいいですが、弟子たちはブッダのようにはいきませんでした。
性欲にまつわる悲喜劇が仏典には多く記されています。
そのため、教団を維持するためにさまざまなルールを設ける必要に迫られました。
その集成が「律蔵」です。「怖い仏教」から引用しましょう。
出家者は故意に精液をもらしてはならない。ただし、夢精は罪とはならない。
同上 p143
上記の文章は、「色欲」を禁ずる謹慎罪の第1条だそうです。
こういった規定ができたからには、「故意に精液」をもらす出家者がいたはずですし、「夢精」は罪にあたるのか悩む出家者がいたに相違ありません。
このほかにも第4条にはこんな規定もあります。
出家者は女性に対して「これこれこういうことをすれば功徳があるから」と称してわいせつな行為をしてはならない。
同上 p162
こういう行為をする輩がいたからこそできた条文です。
仏典は、よく読めば人間臭い話に満ちているのです。沼に咲く蓮華が仏教の象徴なのもうなづけます。
人間性というどうにもならない土壌のうえにこそ、美しい仏法の花が咲くといえるのです。
煩悩は悟りの土台です。煩悩がなければ悟りもありません。すくなくとも悟りの意味はありません。
煩悩即菩提というのもそういう意味なのかもしれません。
「怖い仏教」は読者にそういった問題について思索を促してくれます。
よくある仏教入門書とは趣が違いますが、間違いなく仏教についてのすぐれた入門書です。
興味を持った方はぜひ一度手に取ってみてください。
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