毛沢東の「矛盾論」は「実践論」とならんで広く読まれている作品です。毛沢東が自分で書いたとは思いませんが、一応、毛沢東の著作として話をすすめていきます。
「矛盾論」そのものは短い作品なので読み通すのにそれほど時間はかかりません。
しかし、必ずしも読みやすいものではありません。
扱っている内容が哲学的だからというだけではなく、何かしらの意図をもって書かれた作品だと感じられるからです。
今回は「矛盾論」の解説を試みてみます。
「矛盾論」とは
「矛盾論」は1937年8月の講演をもとにまとめられ、1952年の毛沢東選集の第二巻として刊行されました。
中華人民共和国が成立したのは1949年であり、毛沢東は主席として最高権力者の地位にありました。そのなかで刊行された毛沢東選集です。
毛沢東個人の思想表明の著作ではありません。岩波文庫の解説にもあるように「今日の中国共産党の党風の欠くことのできない構成要素をなした」のです。
それは全党員が準拠すべき公式であり、中国共産党という組織を動かすエトスでもあります。
「矛盾論」は冒頭で2つの世界観について説明することから始めています。2つの世界観とは何でしょう。
形而上学的見方と弁証法的見方
毛沢東は2つの世界観の違いに注意を向けます。それは、
・形而上学的見方
・弁証法的見方
の2つです。それぞれを詳しく見ていきましょう。
形而上学的見方とは
形而上学的見方の特徴は、事物を固定して見てしまうことです。
ものごとが変化せず、初めから終わりまでそのままの姿で存在すると考えることです。
サルははじめからサルであり、人間もまたこの世に誕生したときから人間の姿をしていたと考えるようなものです。神が人間を創造したとする宗教の教義などは典型的な例でしょう。進化論以前の認識ですが、もっとも素朴な認識の仕方ともいえます。
こう書けば、そんな見方にとらわれている人はいないと感じるかもしれません。
しかし、形而上学的見方というのは案外わたしたちにとって身近なものです。私たちは、ものごとを静的に、固定した、発展のないかたちでとらえる罠に知らず知らずのうちに落ち込んでいることがあります。
たとえば、他人を「あいつはこういうやつだ」と決めつけるのもその一つでしょう。他人の本当の姿はそうそうカンタンにわかるものではありません。他人についての理解というのは、往々にして自分の未熟な理解力のなかに他人を閉じ込めているだけだからです。
こういった見方を克服する必要がある、と「矛盾論」は説きます。
弁証法的見方とは
弁証法的見方は、形而上学的見方と対照的な世界観です。
ものごとを動的な、変化のある、運動の一環として把握することです。「万物流転」という言葉がありますが、弁証法的見方とはまさにこれです。
世界の姿を正しく認識したとき、その認識は弁証法的な性格を帯びるのです。
なぜなら世界そのものが弁証法的にできているからです。
運動と変化に満ちた世界、それが私たちが住む現実世界です。
この変化は何によって生まれるかといえば、それは「矛盾」によってです。
矛盾こそが世界を躍動させている根本の原理なのです。
毛沢東は書いています。
社会の変化は主として、社会の内部矛盾の発展、すなわち、生産力と生産関係との矛盾、階級のあいだの矛盾、新しいものと古いものとのあいだの矛盾の発展によるものであり、これらの矛盾の発展によって、社会が前進させられ、新旧社会の交代がおこなわれるのである。
松村一人・竹内実 訳 「矛盾論・実践論」 岩波文庫 p37
発展の根本原理である「矛盾」についてもう少し詳しく毛沢東の議論を追っていきましょう。
矛盾の分析
毛沢東は「矛盾」を普遍性と特殊性という観点から説明しています。まずは普遍性から見ていきましょう。
矛盾の普遍性とは
あらゆる事物のうちに矛盾が見いだされること、そしてその矛盾が発展の原因であること、これが矛盾の普遍性です。毛沢東は書いています。
矛盾は普遍的、絶対的であって、事物の発展のすべての過程のうちに存在し、またすべての過程をはじめからおわりまでつらぬいている。
同上 p43
例としてあげれば、数学ではプラスとマイナス、力学では作用と反作用、物理学では陽子と電子、磁石のS極とN極など自然そのものが矛盾で構成されています。
こういった矛盾の普遍性を正しく認識したのがマルクスやエンゲルス、レーニンたちであると毛沢東は言うのです。
矛盾の特殊性とは
毛沢東は先に矛盾の普遍性について説明したあと特殊性の問題に入りますが、順序としては先に特殊性を説明したほうがいいように感じます。
というのも、さまざまな個別の、つまり特殊の経験の分析と反省から一般的な原理原則を引きだすのが科学的態度というものだからです。
いわゆる帰納法です。毛沢東も書いています。
人間の認識の運動からいうと、それはつねに個別的および特殊的なことがらの認識から一般的なことがらの認識へと、一歩一歩ひろがっていく。
同上 p47
これはその通りですが、毛沢東が言いたいのは次の点にあります。
それは、特殊から一般への認識で満足してはならず、その一般の認識をもとにさらに特殊へと戻らなければならない。このように認識の循環が行われてこそ、認識は深まりゆくのだ、ということです。
これも別に何ということもない話ですが、この常識的な見解が「矛盾論」では「教条主義者」たちに対する批判とともにつづられる点には注目してよいでしょう。
この「教条主義者」たちというのは、当時の中国共産党内における毛沢東の政敵のことです。
この「矛盾論」も「実践論」と同じく権力闘争の一環として生み出されたものなのです。
矛盾の同一性と闘争性
さて矛盾は2つのものの対立として現れますが、この対立する矛盾はそれぞれが孤立したものではありません。
いずれはお互いに転化し、同一化し、一つのものにまとまりゆく過程へと収斂していきます。
毛沢東がいうように、「上がなければ下はなく、下がなければ上もない。不幸がなければ幸福はなく、幸福がなければ不幸もない」のです。
これらの対立は2つで1つです。個々に存在することはできません。
これらの概念は相互に依存しているのです。依存しているということは、相互に同一性が認められるということでもあります。
対立した概念を対立したものとして固定するのは形而上学的見解です。
対立関係も所詮は相対的なものと見抜くこと、それが弁証法的見方です。それが「矛盾の同一性」です。
では「闘争性」とはなんでしょうか。
なんであれ発展するというからには、その本質は運動にあります。
運動は変化です。
では何が変化をひきおこすのでしょうか。
それは矛盾による闘争です。
闘争こそが、ある過程を他の過程へと変化させる原因なのです。
興味深いのは、毛沢東が統一よりも闘争にウェイトを置いているようにみえることです。毛沢東は書いています。
対立物の統一は、条件的、一時的、相対的であるが、対立物がたがいに排除しあう闘争は絶対的である。
同上 p78
矛盾における闘争は、過程を初めからしまいまでつらぬいているとともに、一つの過程を他の過程へ転化させるものであり、矛盾の闘争はいたるところに存在するから、矛盾の闘争性は、無条件的であり、絶対的である。
同上 p78
統一が相対的なのに対して闘争性の絶対性を強調するあたりに毛沢東並びに中国共産党の本質がありそうです。
毛沢東の言を信じるならば、人間は永遠に闘争するほかはありません。
統一はかりそめのものだからです。
統一よりも闘争を重視する姿勢。なぜなら闘争性は絶対なのですから。闘争性が発展の原動力なのですから。
中国共産党の本質もこの辺にありそうです。
そう考えると、毛沢東の「矛盾論」はきわめて現代的な意義をもつ著作ということもできそうです。
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