戦争文学の傑作を読もう! 火野葦平のススメ

書評

国際情勢は緊迫の度を加えつつあり、戦争は私たちにとっても他人事ではなくなりつつあります。にもかかわらず、戦争についての知識は圧倒的に不足しているのが現状です。

端的にいえば、戦争について、私たちは何も知らないのです。戦争を語ることができないのです。

まずは知ることから始めましょう。そのための一助として、戦争文学に触れることからはじめましょう。

今回ご紹介するのは、火野葦平が書いた戦争文学の傑作です。

火野葦平とは?

火野葦平は福岡県出身の作家です。1907年生まれですから、坂口安吾と同年代(学年は同じ)で太宰治の2歳年上です。

早稲田大学で学びながら小説を書き、「糞尿譚」という作品で1937年に芥川賞を受賞しています。このとき火野はすでに日中戦争で中国大陸にいたため、戦地で授賞式が行われたそうです。

参考:火野葦平(Wikipedia)

一兵士として日中戦争に参加し、その経験をもとに書かれた一連の戦争小説は、戦前にベストセラーとなり、一躍火野葦平を有名にしました。

しかし、第二次世界大戦後、火野はGHQにより公職追放の憂き目にあい、戦前の戦争小説の執筆によって「戦犯作家」のレッテルを貼られ、活躍の場を奪われることになりました。

その後、徐々に活動の場を取り戻し、いくつかの小説を公にしていきますが、1960年自死を遂げます。

さまざまな小説を残した火野葦平ですが、彼が貴重なのは優れた戦争文学を残してくれたことでした。

とくに杭州湾上陸を描いた「土と兵隊」や、国民党との一大決戦である徐州会戦をクライマックスとする「麦と兵隊」は、日中戦争を理解するためにもきわめて貴重なものです。

そして両作品に通底するのは、悲惨な現実と自らの人間性をなんとか調和させようとする作者の苦心なのです。

どちらの作品にも、忘れがたく素晴らしいシーンがいくつかあります。誤解のないようにあらかじめ断っておきますが、火野は戦争を賛美していません。それは小説を読めばわかります。

ドイツの作家であるエルンスト・ユンガーは小説「鋼鉄の嵐の中で」で、驚くべきことに戦争を賛美しています。しかもユンガーは実際に戦場で勇敢にたたかった兵士でした。

地獄のような戦場を経験してなお、戦争のすばらしさを綴るヨーロッパ人の精神的な強靭さには驚嘆するほかはありませんが、私たち日本人が持っている戦争文学はもっとあわれなものです。

そして、その代表として私は火野葦平を推したいのです。石川達三の「生きている兵隊」も有名な作品ですが、その文体は火野に比べると煽情的です。石川の文章は現代の週刊誌のそれと変わりありません。火野の作品のほうがすぐれているとあえて断言します。

では、その火野の作品を以下にご紹介していきます。

「土と兵隊」

この小説は、1937年10月20日から11月15日までの出来事を日記風につづったものです。

火野自身とおぼしき主人公が多くの兵隊たちとともに輸送船の太平丸にゆられているところから話は始まります。

10月20日から11月4日までが太平丸での話、そして5日からいよいよ杭州湾上陸が始まります。

5日には東街頭という地点に上陸し、6日には松林鎮、9日には楓涇鎮というところまで前進しています。

13日には銭家浜、15日には嘉善というところまで到達しています。

物語はこの嘉善で終わりますので、戦闘に参加したのは実質10日間ほどということになります。

この小説をそれぞれの地点に分けて、解説していこうと思います。

太平丸にて(10月20日~11月4日)

主人公が属する部隊が乗船しているのが太平丸です。2千人もの人数がひしめく船内は足の踏み場もないほど狭いものだったようです。

この船内で主人公たちは10日以上待機されられるわけですから、現代のわれわれにとってはそれだけでウンザリしそうです。

しかし、この小説にはそういった愚痴は描かれません。これは火野葦平の人柄によるのでしょう。

彼は人間の醜さを筆にして暴き立てるという趣味はもちあわせていないようです。むしろ、彼が描くのはこういう心に残るシーンです。

太平丸には軍馬も多く積まれています。その軍馬たちは船底に押し込められているわけですが、居住環境はけっしてよくありません。病気になって命を落とす馬もいたのです。

私は何頭も遂にたおれた馬を見た。兵隊は必死になって治療を加えているけれども横倒しになったまま、次第に息を引き取っていく。兵隊は自分の子供の臨終でも看取みとるようにじっと見つめている。私たちが上甲板から覗いていると、深い船艙の底で、輜重しちょうの兵隊がしばらくこと切れた馬の傍を離れず、やがて立ち上がって静かに馬に敬礼するのを何度も見た。

火野葦平「土と兵隊 麦と兵隊」社会批評社 p14

火野はこの後に続けて、馬を我が子のように可愛がった知り合いの吉田という男の話や、弾除けとして親類縁者がこしらえてくれた千人針の話を織り込みます。

若い人にとっては少しセンチメンタルに感じられるかもしれません。

しかし、実際に戦場に赴く人にとってはこういった感傷が何よりもありがたいものかもしれません。私たち読者は想像力を働かせるほかはありませんが、こういった火野の描写にいろいろと頭を働かせてあれこれ悩むよりも、素直に人情話として受け取ったほうが健康的です。

火野は実に巧みにこのエピソードを紹介していますから、読者は火野を信じて最後まで付き合えばいいのです。

また、いざ翌日は上陸、という太平丸最後の夜に主人公が家族にしたためた手紙も非常に効果的でうまい。

父親あての手紙はやや形式的、母親あてのものは全文ひらがなで心のこもったあたたかい文面であり、子供にあてたものはカタカナで書かれ、これから敵をやっつけてくるという勇ましい内容です。

この手紙によって、主人公もまた私たちと何ら変わらない、非常に近い存在であることがわかるのです。読者は主人公をより身近に感じるでしょう。

実際、日中戦争に赴いた人々と私たちと何が違うというのか。ただ生きた時代が違う、それだけでしょう。

東街頭(11月5日)

主人公がいよいよ出発するときがきました。まさに初陣です。

11月というだけあって寒さも厳しいなかでの戦闘です。

この上陸作戦で印象的なのは、足元の悪さ、泥と水です。

日中戦争の先行きを象徴しているかのような泥、と格好をつけてみたくもなりますが、靴の中も泥と水、全身泥と水、まさに「土と兵隊」です。

もう一つ、印象的なシーンがあります。主人公が、逃げ遅れた老婆と少女に出会う場面です。主人公は、なぜ戦争が始まる前に逃げなかったのかと訝しがります。

同時に、そこら辺一帯の耕作された畠や、積まれた実のついている稲の山などが目に入り、逃げずにおった理由が判ったように思った。

同 p35

このシーンのように、戦闘場面に突然現れる一般市民は、このあとも同じパターンで登場します。

もちろん主人公は戦闘中ですし、かれら市民をどうすることもできません。

小説の中で市民は唐突に現れ、主人公が何ら手を差し伸べることもできないままに退場します。

そのことで、かえって読者に強い印象を残すのです。

松林鎮(11月6日)

前日の戦闘で戦死した乗本一等兵を火葬するシーンからはじまります。さらに行軍の途中で多くのシナ兵の死体も目にします。

楓涇鎮(11月9日)

ここで主人公の中隊は国民党のトーチカにより前進をはばまれ、一旦行軍がストップします。

敵軍によって破壊された橋梁を修理しなければ前進不可ということで、主人公たちはトーチカからの絶え間ない銃撃にさらされますが、安全地帯の壕で待機していればどうということはなく、意外にのんきな時間を過ごします。

ここで、また戦闘に巻き込まれる市民が現れます。

今回は赤子を抱いた女性です。

トーチカからの銃撃を受けて倒れた女性は赤子を道に落としてしまいます。女性はすぐそばの赤子に這っていくこともできません。

瀕死の状態のなか、赤子を歌であやす女性の光景を見た主人公は、壕から這いだし、地面をはいずりながら女性のもとへ向かい、赤子を布団でくるみ、女性に抱かせてやります。

女性にも投げ出された布団をかけてやり、壕まで再びはいずりながら戻りました。

しかし、翌日、

昨夜の女は赤ん坊を腕の中に抱いて、あやしている格好のまま死んでいた。赤ん坊は眼をくるくる動かし、我々の通過するのを見て、時々にこにこ笑ったりした。私は顔を反け、大急ぎでその横を抜けた。

同 p80

一読して忘れがたいシーンでしょう。戦争はつくづくイヤなものだ、という火野の感慨が伝わってくるようです。

銭家浜(11月13日)

ここで主人公たちはトーチカの攻略にとりかかるのですが、ここでのエピソードが実質この小説のクライマックスといえます。

トーチカの裏手に回り、空気穴に手りゅう弾を入れて破裂させ、トーチカの内部にいた生き残ったシナ兵たちを捕虜とします。

その中には女性と見まがうばかりの美しく若い2人の少年がいました。

2人は主人公の肩にすがり、泣きながら命乞いをします。主人公も迷いますがどうすることもできません。

なおも殺さないでくれという身振りで訴える2人に、主人公は頷いて答えるしかありませんでした。

食事をすませ、疲労から少し睡眠をとった主人公がふと外へでてみると、さきほどの捕虜たちがいないことに気づきます。

主人公は、トーチカの捕虜全員が殺されたことを知り、散兵豪のなかにシナ兵の死体を発見します。

三十六人、皆殺したのだろうか。私は黯然あんぜんとした思いで、又も、胸の中に、怒りの感情の渦巻くのを覚えた。

同 p89

立ち去ろうとした主人公の目に飛び込んできたのは、多くの死体の中で死にきれずにもがくひとりのシナ兵の姿でした。

渾身の勇をふるうように、顔をあげて私を見た。その苦しげな表情に私はぞっとした。彼は懇願するような眼附きで、私と自分の胸とを交互に示した。射ってくれと云っていることに微塵の疑いもない。私は躊躇ちゅうちょしなかった。

同 p89

主人公は銃を構え、引き金をひきました。命令のない発砲を小隊長が咎めますが、主人公には答える気力さえありません。さらに、

我々は無数のトーチカを肉弾を以て奪取したにも関らず、我々の前途には尚無数のトーチカがあったのである。

同 p91

主人公がこれからも同じような経験をしなければならないことを示しています。人間らしさを戦場で保つのがいかに困難であるか、この何気ない一文に火野の思いが凝縮されているようです。

まとめ

エルンスト・ユンガーが戦争賛美の小説を書いたのと比べると、私たち日本人が持つ戦争文学はいかにもか弱い、そういう印象です。

といってユンガーが偉大だというのではありません。

日本が火野葦平の戦争文学をもっていることを、私はむしろ誇りに思うのです。

それはさまざまな欠陥があるかもしれないが、まぎれもなく日本人の、我々だけの文学だからです。

興味を持った方はぜひ一度目を通していただきたいと思います。

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