ナショナリズムとは何か オーウェルの「ナショナリズムについて」を読む

書評

「ナショナリズム」とは何か。「ナショナリズム」は20世紀だけの問題ではありません。現在もなお、「ナショナリズム」はその猛威を振るっています。

人が人である以上、避けることができない病、それが「ナショナリズム」です。

とくに知識人と呼ばれる人々はこの病気にり患する確率が高いようです。

今回は、ジョージ・オーウェル(1903~1950)のすばらしいエッセイである「ナショナリズムについて」をご紹介します。「ナショナリズム」という現象を読み解くうえで絶対に欠かせないすばらしいエッセイです。

オーウェルが指摘した問題は今なお解決のめどすら立っていない難問です。オーウェルが「ナショナリズム」についてどのような分析を試みているのか、さっそく見ていきましょう。

なお、引用はすべて 小野寺健編訳「オーウェル評論集」岩波文庫 に依ったことをお断りしておきます。

ナショナリズムとは

「ナショナリズム」という言葉で私たちが連想するのは、自分が属する国家や民族に対する忠誠心や献身、といったところでしょうか。

この場合、「ナショナリズム」と「愛国心」の違い、といったことがよく指摘されるわけですが、オーウェルもこの両者を区別しています。

オーウェルによる「愛国心」の定義は有名ですから、ここで引用しておきます。

わたしが「愛国心」と呼ぶのは、特定の場所と特定の生活様式にたいする献身的愛情であって、その場所や生活様式こそ世界一だと信じてはいるが、それを他人にまで押しつけようとは考えないものである。

p308

日常の経験に基礎をおく健全な愛情、それが「愛国心」だとオーウェルはいいます。しかも「他人に押しつけようとはしない」控え目なものです。

一方、「ナショナリズム」は「他人に押しつけたい」ものだと言えるでしょう。

なぜ「他人に押しつけたい」か。それは、「ナショナリズム」の本質が権力志向だからです。

ナショナリストたるものはつねに、より強大な権力、より強大な威信を獲得することを目指す。それも自分のためではなく、個人としての自分を捨て、その中に自分を埋没させる対象として選んだ国家とか、これに類する組織のためなのである。

p308

ここで重要なのは、「ナショナリズム」の対象は「国家」だけに限らないということです。自分を埋没させられるなら何でもいいのです。それはどんな「組織」であってもよく、特定の運動、人種などでも構わないわけです。

オーウェルは「共産主義」や「シオニズム」、「政治的カトリシズム」「ユダヤ人差別」「平和主義」などを例としてあげています。

ここで注目しておきたいのは、「ナショナリズム」の対象が現実に存在するものに限らないことです。それは理念であってもよいのです。「キリスト教世界」や「イスラム教世界」であっても差し支えありません。

コミットする対象がありさえすればいいのです。自分の権力志向をより充足できる対象であればなんでもいいわけです。

そして、このような「ナショナリズム」に染まった人々の行動には、ある一定の共通したパターンが見られます。オーウェルによれば、「偏執」や「不安定」、「現実無視」といった特徴がそれです。

ナショナリズムの特徴

ここでは、ナショナリズムの著しい特徴である「現実無視」を取り上げます。オーウェルは書いています。

ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないという、すばらしい才能を持っている。

p322

わが日本でもこの手の例は枚挙に暇がありません。旧日本軍の蛮行を厳しく糾弾する人々がなぜかソ連や中国の蛮行には一切触れなかったり、あるいは逆にソ連や中国の行為を事細かにあげつらうかと思えば、日本軍の行為には寛容だったりなどの例は、まさにナショナリストの特徴に他なりません。

ナショナリストにとって事実などは重要ではなく、自分が忠誠を誓う国家や理念の方がはるかに大切なのです。

あくまでボスに忠実なチンピラとなんら変わるところはありません。ボスの対面に比べれば事実などは何の重要性ももたないため、ナショナリストは平気で過去の改変もやります。どんな悪行もなかったことにし、取るに足りない善行も抜け目なく拾い上げるのです。

ナショナリズムの本質が権力志向である以上、当然のことかもしれません。

さらにオーウェルはナショナリズムを「積極的ナショナリズム」「転移型ナショナリズム」「消極的ナショナリズム」の3つに分類していますが、ここでは「転移型ナショナリズム」に注目して説明していきます。わが日本にもっとも身近なナショナリズムの形態だと思うからです。

転移型ナショナリズム

「転移型ナショナリズム」のなかでイギリスと日本で共通しているものとして、「平和主義」をとりあげます。

オーウェルが論じるイギリスでの「平和主義」を読んでいるととても外国のこととは思えません。やはり「平和主義」もまたナショナリズムのひとつの形態なのです。詳しく見ていきましょう。

平和主義

オーウェルによれば、

ほんとうは西欧民主主義を憎み全体主義を賛美するのが目的ではないかと思われる知識人の平和主義者が、少数ながら存在する。

p331

といいます。さらに、

原則として暴力そのものを弾劾するのではなくて、西欧諸国を守るための暴力だけを弾劾するのだ。

p331

オーウェルが指摘するような知識人は日本にもいます。ロシアのウクライナ侵略をめぐる議論を見れば一目瞭然でしょう。

なぜか被害者であるウクライナを批判し、ロシアを擁護する評論家が一定数存在しているからです。

オーウェルの言葉をもじれば、「ウクライナを守る暴力だけを弾劾」する手合いがいるのです。オーウェルはこうも書いています。

この種の平和主義の宣伝文書となると、きまってソヴィエトや中国には触れようとしないのである。

p331

77年前に書かれた文章とは思えません。現在も状況はまったく変わっていないからです。

つまり77年前と同様、ナショナリストたちのあこがれはロシアと中国ということになるからです。

なぜそうなのかは難しい問題です。人生観の根本的な対立があるのかもしれません。大陸と海との対立、ランドパワーとシーパワーとの対立なのでしょうか。その点には深入りしませんが、あらためてオーウェルの慧眼には驚くばかりです。

まとめ

ロシアのウクライナ侵略があぶりだしたのは、誠実に考えている知識人とナショナリズムに目がくらんでいる知識人との差です。

後者が日本でもこれほど多いのかとあらためて驚いた方も多いのではないでしょうか。ナショナリズムが知識人の病である以上、これからも自らの権力志向に振り回される言論人は常に存在するはずです。

私たちがそういった偏った議論に振り回されないためには、オーウェルのような誠実に考えた人々の文章を熟読する必要があります。今回、オーウェルの「ナショナリズムについて」を再び読み返して、その思いを強くしました。多くの人に強く勧める所以です。

オーウェル評論集 (岩波文庫)
オーウェル(一九〇三―五〇)といえば,ひとは『動物農場』『一九八四年』を想うだろう.だが三○年代から戦後にかけて展開された活発な評論活動を忘れてはならない.文学・政治・社会現象・植民地体験など多岐にわたる対象に鋭く深く切り込む彼のエッセイを貫くのは,自律的知識人に固有のあの強靱さと優しさだ.十二篇を精選.

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