時間は実在しない?驚くべき哲学の世界

哲学

「時間は実在しない」


そんなバカな、というのが大方の反応ではないでしょうか。そんなわけがあるか、今日はいずれ昨日になるし、明日は必ずやってくる。昨日の出来事をよく覚えているし、それどころか何年も前のことだってありありと思いだせる。時間が存在しないなんてナンセンスもいいところだ。

多くの人がそのように感じるでしょう。時の流れは実感として確かに存在する。その証拠に自分自身、日々、歳をとっているじゃないか。髪には白いものが混じってきたし、シワも増えた。時間の流れが存在しないなら、なぜ自分は変化しているのか?

こういう反論はもっともです。この経験は疑えない事実ですから。

しかし、それにもかかわらず、時間は実在しません。今回は、時間をめぐる哲学的議論についてご紹介したいと思います。

大森荘蔵の「時は流れず」

日本を代表する哲学者・大森荘蔵の「時は流れず」というエッセイを土台に話を進めていきます。

このエッセイは平凡社の「大森荘蔵セレクション」に収められていますので、興味がある方は参照してください。

このエッセイで大森が主張しているのは、まさに「時間は実在しない」ということであり、「時が流れる」というのは完全に誤った比喩であるということです。

大森の議論を下敷きに詳しく見ていきましょう。

時間はモノではない

まず、「実在」という言葉の意味を確認しておきましょう。適当な国語辞典で意味を調べてみます。
新明解国語辞典(第6版)では次のようになっています。

「だれにでもその存在が認められるものとして、そこにある(居る)こと」

ここでは2つのポイントが指摘できると思います。

  1. 実際に存在していること
  2. 客観性があること

重要なのは客観性です。自分にとってだけ存在しているのではありません。他人とその存在を共有できなければ実在しているとはいえません。

そして「時間」は実在しないというのが大森の主張です。

「時間」はモノではない。「時間」という名詞形に引きずられて、「時間」というモノが存在すると誤解されがちだが、これは初等的誤解だ、と大森は言います(「大森荘蔵セレクション」 p440)。

「時間」というのは、「包括的名詞」であって、これだ!と限定できるものではないのです。

では「時間」とは何なのでしょう。

時間と運動は無関係

時間が過ぎる。時間が流れる。こういう比喩は私たちの意識に深く根をはっているため、「時間」について冷静に考えることが非常に難しくなっています。

大森は「「時間と運動の連動」という常識」(同 p427)と呼んでいます。

大森によれば、「時間」と「運動」は相いれないものであるといいます。

私たちは無意識のうちに「時間」は「動態的(ダイナミック)」なものであると考えていますが、じつは「時間」は「静態的(スタティック)」なものである、というのが真相なのです。

時間は静態的な座標軸であって、運動とは何の縁もない。時間とは過去と未来のみを含む時間順序の座標なのである。いっぽう運動とは現在経験に固有な現象なのである。現在とはまさにヘラクレイトスのパンタレイ、万物流転の世界なのである。

大森荘蔵セレクション p428

ここで注目したいのは、「時間」と「運動」とが別物であるという認識です。

「運動」つまり「変化」ですが、これは「時間」に特有な性質であると私たちは勝手に考えていますが、実は違う。「時間」は動かない。固定的なのです。

私たちは「運動」を「時間」と取り違えていたのです。

では、「時間」とは一体全体何なのか。ひとつ、注目してほしい点があります。

「現在経験」という概念です。

「現在」というと、「過去」や「未来」がワンセットで連想されます。ここに概念の混同があります。

「現在経験」と「過去」「未来」とはまったくの別物です。違うカテゴリーに属するものです。ここを少し掘り下げていきましょう。

過去‐現在‐未来という虚妄

現在の経験はやがて過去になり、現在からどんどん遠くなっていくように感じられる。このことから、「時間の流れ」ということが比喩として受け入れやすくなります。

そして、「時間の流れ」という考え方が私たちの意識に定着してしまうのは、過去→現在→未来 という数直線の時間の観念に大きな原因があるといえます。

この時間の数直線は、シンプルでかつ「時間の流れ」という比喩にもよくマッチするため、すんなりと受け入れられるのです。

しかし、この時間の数直線は正しいものとはいえません。冷静に考えてみましょう。

私たちにとってリアルに経験できるのは、あくまで「現在経験」だけです。

歩く、食べる、見る、触る。こういった知覚経験はただ「現在」のみの経験なのです。当然です。

一方、過去や未来などはどうでしょう。未来は経験できませんので、あくまで想像するだけです。過去の方も事情はそれほど変わりません。

私たちができるのは、過去の経験を思い出すことだけです。つまり「想起」です。

大森の言葉を借りれば、「想起経験」によって私たちは過去を経験することができるだけです。未来も過去も「想起」によってしか経験できないのに、「現在経験」はリアルな重量感のある現実の知覚です。

ならば、この次元の違うそれぞれの経験を、過去→現在→未来という数直線でひとまとめにするのは概念の混同ではないでしょうか。

過去は動かない、固定したものです。

他の過去との関係も変化しません。1582年に織田信長は本能寺で死んだのであり、1560年に桶狭間で今川義元を破った事件は本能寺以前の事象です。そして、桶狭間は本能寺に先立つ事象であるという関係は変化しようがありません。

時間は変化しません。時は流れない。「静態的(スタティック)」なものです。

一方、現在は運動のなかにあります。流転こそ世界です。

「時間」と「運動」とは別ものです。「時間」は実在しません。

ただ、世界には「万物流転」あるのみです。

まとめ

以上、急ぎ足で大森荘蔵の「時は流れず」を下敷きに「時間は実在しない」という主張を見てきましたが、正直、うまく説明できた自信はありません。

むしろ、余計わけがわからなくなった感がしないでもない。

しかし、それは私の説明の罪であって、大森荘蔵には一切かかわりないという点は強調しておきたいと思います。

興味を持った方はいくつか本を紹介しておきますので、ぜひそちらを参照してほしいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました