一定の年代の方なら中央公論社の「世界の名著」をおぼえているでしょう。
上下2段組みの分厚いハードカバー、それでいて意外に廉価で入手しやすかったあのシリーズ。プラトン、アリストテレスからハイデガー、ヴィトゲンシュタインまで、西洋の名著を日本語で読める素晴らしいシリーズでした。
「世界の名著」は現在では古本でしか入手できませんが、幸いに「中公クラシックス」シリーズにその多くが収められています。
もう一度、「中公クラシックス」を通して、「世界の名著」に触れてみたいと思います。
プラトン「ソクラテスの弁明ーほか」
哲学の源流にして頂点、それがプラトンであるとあえて言い切ってしまいましょう。
本書には「ソクラテスの弁明」「クリトン」「ゴルギアス」が収められています。「ソクラテスの弁明」「クリトン」は田中美知太郎訳、「ゴルギアス」は藤沢令夫訳です。プラトン初期と中期の代表作が収められいる格好です。
とくに「ゴルギアス」は非常に面白い。テーマは「正義」についてですが、「力こそ正義」を強く主張するカリクレスの議論をソクラテスが骨抜きにしていく過程はまさに圧巻です。
作者プラトンがいかに議論というものに精通していたかを思い知らせてくれる名著です。
「ゴルギアス」は必読の作品ですが、もちろん「ソクラテスの弁明」と「クリトン」も外すことはできません。
ただ、これは私個人の好みの問題かもしれませんが、翻訳者の田中美知太郎の文章が間延びしていて緊張感に乏しい。
正確な翻訳なのかもしれませんが、まるでリズム感のない悪文なのです。
実際、田中美知太郎のエッセイなどを読んでみても非常に読みにくい。何が言いたのかよくわからないのです。
田中美知太郎は古典ギリシャ業界ではビッグネームなのかもしれませんが、もうそろそろ限界でしょう。悪名高い「ギリシャ語入門」とともに退場してもらった方がいいのかもしれません。
ショーペンハウアー「意思と表象としての世界」
保守論客として有名な西尾幹二氏翻訳の名著です。
これを超える「意思と表象としての世界」の翻訳はしばらく現れないでしょう。それほどすばらしい仕事です。
「世界の名著」シリーズでは上下2段組みで760ページほどの大作でしたが、「中公クラシックス」では3冊に分けられています。
「世界の名著」シリーズでは老眼の私には辛いものでしたが、3冊に分けたことで読みやすくはなりました。
ただ、残念なのは西尾幹二氏による100ページほどのショーペンハウアー論がカットされてしまったことです。ショーペンハウアーの伝記、本作の特徴と欠点などを簡潔にまとめた名解説でしたが、そちらは残念ですが「中公クラシックス」版には載っていないのです。
その一点を除けば、「中公クラシックス」版を買わない理由はありません。
じっくりとこの名著に取り組んでほしいと思います。
ライプニッツ「モナドロジー・形而上学叙説」
名著の誉れ高いにもかかわらず何度読んでも理解できないのがライプニッツの「モナドロジー」でした。「モナドには窓がない」という有名なフレーズに出くわしても、だからどうしたと言いたくなる。
全部読み通すのにそれほど時間がかかるわけでもなく、また議論をたどるのが困難なわけでもないのに、なぜか読み進めていくうちに道に迷ってしまう不思議な本です。
原因はライプニッツにあります。
「モナドロジー」を読み進めていくとわかりますが、ライプニッツは「神」を見出したいのです。そしてこの「神」を求めるライプニッツの情熱が理解できないのです。
なぜそこまで「神」が必要なのか?
しかし、この理解できない部分こそがライプニッツの核心でしょうし、またヨーロッパ文明の核心でもあるように感じます。
その意味で、ライプニッツは何度も挑戦すべき哲学者なのかもしれません。
バジョット「イギリス憲政論」
「イギリス憲政論」とはいうものの、本書は「イギリス憲政論」入門書ではない点には注意です。ある程度基礎的な知識がないと途中で挫折します。しかもバジョットは話の脱線が多く、読んでいて退屈することがしばしばあります。
また、イギリスの制度をハッキリさせるためにアメリカの大統領制との比較がしばしばなされますが、これも大統領制について基本的知識があった方がはるかに楽しめます。
とはいえ、本書がイギリスの憲政についてのすぐれた解説書であるのは事実です。
バジョットの文章もじっくり注意深く読めば、ところどころ優れた洞察がちりばめられています。本書はあくまでイギリスの憲政についての本であって、せせこましい制度上の規定についての本ではないのです。
バジョットは制度も国民の成長に応じて変わるべきと考えており、制度は洋服に例えられ、国民にとって制度が窮屈になることもありうる、と書いています。
まったくバジョットの言う通りで、何十年も前の押しつけられた憲法を一字一句変えずに金科玉条としているどこかの愚かな国民のことをバジョットが知ったらさぞ驚くのではないでしょうか。
それはともかく、本書は少し根気のいる作品でもあります。バジョットの文章に慣れるまで少し時間がかるでしょう。
しかし、いったん慣れてしまえば、バジョットの慧眼に読者は驚くに違いありません。私も2,3度読み返しましたが、回数を重ねるごとに最初は気付かなかった細かい部分が理解できるようになり、非常に面白かった記憶があります。
ぜひ一度といわず二度三度と読んでみていただきたいと思います。
ハイデガー「存在と時間」
20世紀最大の哲学者などとよばれたりするハイデガーですが、「存在と時間」は確かに面白い本です。「存在」についてこれほど精緻に考えた人はいなかったのではないでしょうか。
「存在」の不思議に気付いた人は数多くいたでしょうが、ここまでしつこく議論を深めた人はハイデガーが初めてでしょう。
ハイデガーの用いる方法論は「現象学」という学問で、学問である以上、客観性が命です。誰もが同じ意味内容で使うべき専門用語もふんだんに出てきます。
この「中公クラシックス」版は原佑・渡邊二郎が翻訳者ですが、客観性の確保という観点からはこの原・渡邊訳がふさわしいのではないでしょうか。
現在は「存在と時間」はさまざまな翻訳のバージョンがあり、中山元氏の光文社文庫版や熊野純彦氏の岩波文庫版などもあり、選択肢が増えた分、いろいろと目移りしてしまいますが、客観的な正確さという点で原佑・渡邊二郎訳をおススメします。
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