たまには哲学してみたいときにおススメな三冊

哲学

皆さん、こんにちは。

哲学についてどんなイメージを持っていますか?

哲学ってよくわからないなあ。なにをそう難しく考えることがあるんだろう。でも、哲学について、ある程度のイメージはつかんでおきたいな

今回はそんな方におすすめの3冊をご紹介します。
平易な言葉で紡がれた名著です。

言葉は平易でも、内容はしっかりしています。
ですが、決して難しいわけではありません。
簡単な言葉で、タフな問題を考えぬいている名著たちです。

まずはこちらから。

三浦つとむ 「弁証法とはどういう科学か」

三浦つとむは独学で哲学を学んだひとです。


哲学のみならず、言語学の分野でも注目すべき仕事をしています。


この「弁証法はどういう科学か」は三浦の代表作の一つといっていいでしょう。


表題にある「弁証法」についての解説が本書の内容です。


では、「弁証法」とは何でしょうか?
ひょっとしたら、高校の倫理の授業で「弁証法」という言葉を知っている方もいるのではないでしょうか。


三浦が本書で解説しようとする「弁証法」とは、主にマルクスとエンゲルスの弁証法ですから、政治思想的には三浦は左派に属するでしょう。


しかし、三浦も書いているように、「弁証法」は何も難しいことではないのです。


もっと言えば、私たちは日常的に「弁証法」的に世界を把握しています。
三浦の言葉を借りれば、「世界が弁証法的にできている」から、「弁証法」的に把握するしかないわけです。
「弁証法」的に認識することが、世界を正しく認識することなのです。


弁証法、弁証法とくどくどしく述べてきましたが、では、一体全体、弁証法とは何なのでしょう。

弁証法とは、世界の在り方そのものなのです。

では、世界はどのような特徴をもっているのでしょう。
いくつか指摘しておきましょう。


・すべては変化している
・すべては相対的である
・対立や矛盾は固定的ではない。発展変化する。


最後の、固定的に物事を見てしまうというのは、私たち人間のクセでしょう。
あいつは悪い奴だ、という決めつけは、なかなか覆しにくいものです。


三浦はこういう固定的なものの見方を「形而上学的な見方」と呼んでいます。


この「形而上学的」というのは「弁証法的」のまさに反対の見方で、それゆえに三浦的には間違ったものの見方になります。


じつは「形而上学的見方」というのは、今でも私たちのまわりに発見できるものです。


例えば、最近は日本を取り巻く周辺国との関係がギスギスしてきましたね。


それは国家間の問題ですから、そういうこともあるでしょう。


しかし、日本人だから、あるいは韓国人だから中国人だからとその属性によって、一人の人間をある一定のイメージのなかに閉じ込めてしまうのは、確実に間違っています。
まさに三浦の言う「形而上学的見方」でしょう。


このように、「弁証法的見方」を学ぶことは私たちにとって有意義なことです。


本書は、さらにくわしく「弁証法」についてわかりやすく解説を加えています。
重要な用語は、「対立物の相互浸透」「量質転化」「否定の否定」などです。
一見しただけでは何のことかよくわからないでしょうが、三浦の説明を追っていけば、平易な説明でこれらの用語がよく理解できるようになります。


左派とは政治思想的に合わない、という方も、ぜひ本書を手に取っていただきたい。


政治思想だけの理由で三浦つとむを捨ててしまうのはあまりにもったいないのです。


私事ですが、本書を読み終わったあとは、まさに自由になったような感じを味わったものです。
視野が開けたといいましょうか、なんだか身軽になった解放感がありました。
本書のような読後感を経験させてくれる本は、それほど多くはありません。
自信をもって本書を勧める所以です。

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)

大森荘蔵  「知の構築とその呪縛」

大森荘蔵は東京大学で哲学を教えていた教授です。
最初は物理学を専攻したようで、第二次大戦後に哲学に転向した経歴を持っています。


この「知の構築とその呪縛」は、放送大学の教科書として執筆されたもので、大森哲学の入門としては不向きかもしれませんが、簡潔にまとまった哲学史としても読めるもので、初心者にはきわめて有益な作品です。


大森の文章は非常にクリアーで清潔な印象を受けます。
星新一とはまた違った清潔さです。
初めて日本人哲学者の著作に接するなら、大森が最適ではないでしょうか。


本書の内容は、世界認識の歴史(主にルネッサンス以降)についてです。
世界の数量的把握によって、つまり科学によって人間は生活環境の大幅な改善に成功しました。


大森の言葉を借りれば、「略画」から「密画」への深化です。


おおざっぱに世界と慣れ親しんでいた人間は、世界を時間的空間的に細かく位置を測定するように把握する術を身につけていきます。
結果として、世界を利用しやすくはなりましたが、世界と交信することはもうできなくなったのです。
人間は主観と客観の牢獄に閉じ込められ、世界は私たちにとって疎遠なものになってしまいました。


この「密画」の完成者がデカルトなのですが、もちろんデカルトはそこまで考えていたわけではありません。


ただ結果として、私たちの感性が世界から置いてきぼりを食ったということなのです。


大森の本書の魅力は、叙述がきわめて明快で、非常に面白いことです。
こういう題材で読者を最後まで飽きさせないというのは、かなりの力量を要します。


大体、途中で飽きてしまうからです。


大森はその点でもすばらしい芸を見せています。
主観と客観の分裂が近代の過ちであるかのように語られる14章と15章は、本書のまとめの部分ですが、非常におもしろい。
こういうテーマをここまでおもしろく語れる哲学者というのはそうそういないのではないでしょうか。
ぜひ、一読して確認してみてください。

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)

福田恆存  「私の幸福論」

エッセイとは、他人を説得して自分の意見を受け入れさせること、と定義できるとすれば、本書はまさにエッセイの名にふさわしいものといえるでしょう。


福田恆存は生前は保守反動の権化のようにみなされてインテリ層の受けが悪かったようですが、いまではそんな偏頗な見方で福田恆存を見る人はいないでしょう。


福田は哲学者ではありませんが、本書は物を考えるとはどういうことか、その実例を見せてくれる名著なのです。


本書の冒頭で福田は「美醜について」論じます。


その中で、美人でない人は、美人と同じように扱われると考えてはならない、という意味のことを福田は書いています。


現代では暴言とみなされそうですが、福田のいうことは一理あります。


「美醜について」論じているわけですが、福田の意見は「美醜」だけではなく、さまざまな性質についてもあてはまるのではないでしょうか。
たとえば、頭の良し悪し、運動能力、ビジネス能力、あるいは性格。
頭が悪い人は、頭がいい人と同じようにあつかわれると考えてはならない、こうも言えそうです。
私も頭が悪い人間に属しますので、頭がいい人と同じようにあつかってもらえるなどとはもちろん考えていません。
それが良いことか悪いことかは別にして、世の中はそういうものだと考えるからです。


世の中を謗ってみてもはじまらないのです。


私たちはなぜ生きるのか、その理由はあきらかにならないにしても、生まれた以上、私たちは生きなければならないし、生きる以上、私たちは幸福にならねばならない。


福田はそう言います。


そのための心構えが、本書のなかに詰まっています。
もし、あなたが道に迷って途方にくれているのなら、本書を手に取ってみてください。
ヒントが見つかるかもしれません。


少なくとも私は、本書から大きな励ましを受けました。
いつも折に触れて読み返す、そういう本は決して多くはありません。
福田恆存の本書は、その稀有な一冊なのです。

私の幸福論 (ちくま文庫)

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