イスラム教を10分で理解しよう!小室直樹の「イスラム原論」を読む

書評

私たちはもはやイスラム教に無関心でいるわけにはいきません。

イスラム教を信じる人々は私たちの隣人になりつつあります。

以前よりももっと身近な存在なのです。

イスラムを知るためにおすすめしたいのが、今回ご紹介する 小室直樹 「日本人のためのイスラム原論」です。

まずはこの本を通してイスラムの概略をつかみましょう。

イスラム教とは

イスラム教は、メッカ出身のムハンマド(マホメット)が広めた宗教です。

現在では、信者数が16億人(2010年)とも言われ、今後さらにその数を伸ばしていく傾向にあります。

中近東や中央アジア、アフリカなどに信者が多く、東南アジアでもマレーシアやインドネシアなどはイスラム教徒数が非常に多いことで知られています。

イスラム教を知るためには、啓典であるクルアーン(コーラン)を読むに如くはないのですが、いかんせん、このクルアーンは読み通すのが難しい。

そこで、クルアーンの中身にはあまり触れずに、まずイスラム教徒の行動様式(エトス)を理解することから始めましょう。

まずは形から入るのです。

その方が、かえって理解しやすいこともあるのです。

著者も、「規範なくしては、イスラム教ではない」p40 と書いています。

ではイスラム教の規範とはなんでしょう。

次の2点をおさえておきましょう。

・六信五行
・ハラム

以下、それぞれ見ていきます。

六信五行

六信とは、イスラム教徒が信仰しなければならない六つの対象です。

・神(アッラー)
・天使(マラク)
・啓典(キターブ)
・預言者(ナビー)
・来世(アーキラット)
・天命(カダル)

神(アッラー)とは唯一絶対の神です。

この神以外の神々を信じることは許されません。

天使(マラク)は、アッラーの言葉を預言者(ナビー)に伝達します。

アッラーは直接、預言者には語りかけません。必ず天使を介して意志を伝達するのです。

啓典(キターブ)とは、すなわちクルアーンのことです。

預言者(ナビー)とはムハンマドのことです。

来世(アーキラット)とは、死後の天国と地獄のこと。

そして天命(カダル)とは、現世のことをアッラーが運命づけているという信仰です。

五行とは、信者が行うべき五つの行為です。

以下に述べる五つの宗教的義務を同時に果たして、はじめてイスラム教の信者になれる

「日本人のためのイスラム原論」  p41

・信仰告白(シャハダ)
・礼拝(サラート)
・喜捨(ザカート)
・断食(サウム)
・巡礼(ハッジ)

信仰告白(シャハダ)とは、

アッラーの他に神なし。マホメットはその使徒である

 同   p42

と宣言することです。

心に思うだけではなく、声に出して他人に宣言しなければなりません。

礼拝(サラート)とは、あらためて言うまでもないでしょう。イスラム教徒の礼拝は私たちにとっても身近なものになりました。

1日に5回、決められた時間の礼拝が必要です。

寝る前に五回分まとめて礼拝するなど、もっての他である。

  同   p42

日本人がイスラム教徒だったなら、思いつきそうなことですね。

喜捨(ザカート)は、貧しいものたちへの寄付のことです。

寄付といえば善意でやるものというイメージですが、イスラム教徒にとって喜捨(ザカート)は善意ではなく、義務です。

金額も所得の40分の1と決まっているそうです。

断食(サウム)もよく知られています。

ラマダン月(イスラム歴の第9月)に日の出から日没まで行われます。夜は食事してもいいようです。

最後は巡礼(ハッジ)です。

イスラム教徒のメッカ巡礼は、絶対の義務ではありません。

諸事情によりできない場合もあるからです。

しかし、この巡礼は信者にとっては特別なもののようで、毎年、世界中から多くのイスラム教徒たちがメッカに集まってきます。

ハラム

ハラムとは、食事に関しての規範です。

具体的には、食べてはいけないものが明確になっています。

豚肉が厳禁であるのはよく知られていると思いますが、禁止されているのはそれだけではありません。酒や肉食動物、爬虫類、昆虫もダメなようです(p117)。

逆に、食べてもいいものは「ハラル」と呼びます。また、興味深いことに、この「ハラル」を調理するときも作法があるそうです。

この作法のことを「ザビハー Zabihah」というのだが、食肉用の動物を処理するときは、かならず「アッラーの御名においてアッラーは偉大なり」と唱えつつ、一気に頸動脈と喉笛を切断しなければならない。

 同  p118

この処理の方法も、要らざる苦痛を与えないためだそうで、いろいろと細かいルールがあるものです。

なぜ、日本ではイスラムが栄えなかったのか

興味深い事実として小室直樹氏が本書で指摘しているのは、「なぜ日本にはムスリム(イスラム教徒)が少ないのか」p24 ということです。

イスラム教は中国にも伝来していましたし、インドネシアのように多くの住民がイスラム教徒になった地域もあるにもかかわらずです。

日本にイスラム教が根付かなかった理由とは、イスラム教の「規範」にこそある、というのが著者の見解です。

端的に言えば、日本人は「規範」が嫌いなのです。

細かいルールというのが嫌なのです。

その証拠として著者があげているのが、日本における仏教の戒律が、徐々に骨抜きにされ、親鸞に至っては何と妻帯するまでになってしまった事実です。

もはやこうなっては、女犯もくそもあったものではなく、僧侶とは呼べません。

親鸞の妻帯に至る理由がまたふるっています。

「聖徳太子が夢の中に現われて、お許しになったからだ」と伝えられている

 同  p99

これほどめちゃくちゃな理由もありません。著者も、

戒律を制定したお釈迦様が夢に現われて「結婚してもよい」とおっしゃったというのなら、まだ話は分かる

 同  p99

とあきれています。

なぜお釈迦様ではなく聖徳太子なのでしょう。

聖徳太子は仏教を厚く保護したとはいえ、ただの政治家にすぎないのです。

仏教の戒律とは何の関係もありません。

日本でイスラム教が根付かなかったのはなぜか。

その理由をもう一度確認します。

それは、日本人が規範というものを好まないからです。

この気質が変わらないなら、日本でイスラム教が受け入れられるのは難しいでしょう。

日本で信者を増やすためには、日本人を根底から変えるか、イスラム教側で妥協するか、どちらかしかありません。

ブックサプライ

予定説と宿命説

イスラム教を知るには、キリスト教の「予定説」と比較すると非常にわかりやすいでしょう。

この「予定説」はきわめて「奇態」な教義であり、なぜこんな教義をありがたがって信じるのかわからないような珍妙なものです。

まずは「予定説」を確認しましょう。

予定説

キリスト教の教えでは、死後、神による裁きを受け、救済されるか永遠の死かが決定されます。

ではこの裁判がどういう基準によって決定されるかといえば、すべては神の御心次第ということになります。

生前の善行も悪行もまったく関係ありません。

善人であろうがなかろうが、神が永遠の死と決めたらそれで終了です。

そしてこの決定はあらかじめ決められていて変更はできません。

これを予定説といいます。

良いことをしたから救済される、罪を犯したから永遠の死という因果律が通用しない世界です。

「失楽園」で有名なミルトンがこの予定説を批判して、「私はこのような神をどうしても尊敬することはできない」p237 と言ったそうですが、同感です。

ちなみにこの予定説に呪術をミックスし、さらにその教義をマイルドにしたのがカトリックです。

予定説のような厳しい教説では、決して多くの人の心をつないでおくことはできなかったでしょう。

宿命論的予定説

ではイスラム教はどうかといえば、著者によれば「宿命論的予定説」です。

どういうことでしょうか。

この世の運命、すなわち人間の宿命(天命)に関しては、すべて神が決定なさる。だが、来世の運命に関しては因果律が成り立つ。

 同   p251

イスラムの規範を守っていれば天国(緑園)に行く可能性があります

一方で、規範に背き、イスラムに背を向ける人々は地獄行きです。

予定説に比べれば非常にわかりやすい形です。

予定説では、敬虔な信者ほど死後の救済が気にかかり不安が増大する結果、まともな生活すら営めなくなります。

信者を狂気に追いやるのが予定説です。

一方、イスラム教では、敬虔な信者はイスラムの規範に忠実であればいいのです。

死後の裁きをそれほど恐れる必要がなくなります。

実際、クルアーンのなかで繰り返し言及されるのはアッラーの慈悲です。

ある程度の因果律を採用したことで、難問を回避し、信者を要らざる苦悩から救ったのがイスラムともいえます。

イスラムの過激派について

イスラム教といえば過激派を連想する方も多いと思います。

イスラム教徒=過激派という単純な図式は成立しませんが、著者によれば、イスラム教のなかに過激派を生む文化的背景があるということです。

どういうことでしょうか。

過激派は無知無教養の輩ではない

高学歴の人や欧米に留学経験がある人でも過激派になる、というのはよく指摘されることです。著者も、

むしろ高い知性を持っていて、真剣にコーランを読めば読むほど、その人物はジハードに傾斜していくのである。

 同   p320

と書いています。

とすれば、イスラム教の教義自体に人々をジハード(聖戦)にいざなう要素が多分にあって、それを人々が行動に移したときに過激派と分類されることになります。

確かにクルアーンにはジハードをすすめる文言もあり、クルアーンすべてを敬虔に信じるなら、アッラーの慈悲とともにジハードも信じなければなりません。

それとととに、著者は、テロリストが異常とみなされるのは欧米の価値観であって、その価値観は普遍的なものではないことも指摘しています。

イスラムの過激派も長い歴史をもち、過激派の存在は決して今に始まったことではない、と読者に注意を促しています。

もともとイスラム教は他宗教に寛容な宗教です。

この点、キリスト教やユダヤ教とはまったく違います。

しかし、そんな寛容なイスラム教徒が決して許さないこと、それが、

永遠なるアッラーの教えを冒瀆し、踏みにじる行為である。このとき、敬虔なイスラム教徒はイスラム教を守るためには自分の命を捨ててもかまわないと考えるのである。

 同  p327

イスラム教徒と付き合っていく上で、肝に銘じておきたいところです。

ジハードは個人個人で勝手に自称できない

誰でもいいですが、過激な行動を起こしてそれをジハードだと自称するものがいたとしましょう。

その行為は果たしてジハードなのでしょうか。

もしそれを認めたら、社会を騒がす不届き者がジハードを唱えて自己弁護を謀る可能性があります。

なにがジハードで、なにがジハードでないか、それを決める権威がイスラム法学者です。

個々人のムスリムが勝手に「この戦いはジハードだ」などと決めることは許されない。あくまでもイスラム法学者がコーランやスンナなどに照らし合わせたうえで、ジハードの決定を下すことが必要とされる。

 同  p327

イスラム法学者は、クルアーンはもちろん、ムハンマドの言行録であるハディースなどに精通している知識人です。

こういった人々が認定するのでなければ、ジハードとは呼ばれないのです。

社会を安定させる役割を担っているといえるでしょう。

しかし、これらイスラム法学者たちが、近代国家の枠組みのなかで支配者層に加担している場合はどうでしょう。

おそらく一般のイスラム教徒たちはこれら堕落した法学者たちを認めないでしょう。

イスラム国のような急速に拡大した過激派の運動の背景には、イスラム法学者たちの権威失墜という事情もありそうです。

まとめ

イスラム教についての入門書は数多くあります。

どれも有益な書物で、一読する価値があります。

今回紹介した小室直樹 「日本人のためのイスラム原論」は、社会学者であり非イスラム教徒である著者がイスラムを論じるという点に特徴があります。

キリスト教や仏教との比較もあり、非常にイスラム教を理解しやすい内容になっています。

ぜひ手に取って確認してください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました