ものごとを一つの側面から見ているだけでは深い理解に達することはできません。いろいろな角度から検討することで思わぬ発見をすることもあります。
それは言語においても同様です。日本語だけでなく、他の言語によって新たな側面が見えてくることもあるのです。
今回は、「論語」を英語で読んでみる、ということを提案したいと思います。
英語圏の人々を通して「論語」を読むことで新しい地平線が見えてくるのではないでしょうか。
なぜ「論語」を英語で読むのか
「論語」の文章は古代中国語の書き言葉です。
いわゆる漢文と呼ばれるものです。
日本では「訓読」という方法で漢文を日本語化して理解してきました。例えば、
兵者詭道也
「孫子」 計篇
という文章を、
「兵とは詭道なり」
のように翻訳するのです。
この「訓読」が非常に優れた方法であったために、漢文の現代語訳はそれほど普及しなかったきらいがあります。
なにより「訓読」による日本語訳は非常にリズミカルで独特の魅力を持つ一方、現代語訳は漢文がもつ文章のリズムを殺してしまう欠点があるからです。
現在でも漢文を現代語訳で引用する人はまれでしょう。読み下し文のほうが威厳とリズムに富んでいるからです。
このように漢文の翻訳というのは非常に難しいものです。それは漢文を英語に翻訳する場合も同様です。漢文の命であるリズムの再現ができないからです。翻訳とはそういうものでしょう。
そこで、リズムの再現はあきらめて、文意の理解に重きを置くという結果になりますが、そこで重要になるのが英語というツールです。
東アジアではない文化圏から見た「論語」通して、私たちは新しい「論語」に接することができます。幸いに英語圏には優れた翻訳が多数存在します。
今回は2冊だけ紹介します。
Arthur Waley 「The Analects」とD.C.Lau 「The Analects」の2冊です。
以下、それぞれ見ていきます。
DMM.com証券Arthur Waley 「The Analects」
アーサー・ウェイリー(1889~1966)は言語の天才というべき人で、独学で中国語や日本語を学び、優れた翻訳を多数残しています。
大英博物館の学芸員だった彼は、当時貴重だったさまざまなテキストに接する機会に恵まれたのでしょう。「論語」や「老子」、「詩経」などの中国古典や、「源氏物語」や「枕草子」なども訳しています。
とくに「源氏物語」は名訳との評価が高く、私の知り合いのアメリカ人もウェイリー訳の「源氏物語」を愛読していました。
ウェイリーの「論語」の翻訳が「The Analects」です。さっそく彼の翻訳をいくつか見ていきましょう。
子曰、巧言令色、鮮矣仁
子曰く、巧言令色、鮮し仁。
学而篇にある有名な言葉ですね。ウェイリーはこう訳しています。
The Master said, ‘Clever talk and a pretentious manner’ are seldom found in the Good.
「The Analects」 everyman’s library p75
「巧言令色」の訳の部分、
「’Clever talk and a pretentious manner’」を引用符でくくっているのは、この部分が孔子の言葉ではなく伝統的な慣用句だったというウェイリーの解釈のためです。
つまり、「巧言令色」という言葉を孔子が批評したのが「鮮矣仁」というわけです。
妥当かどうかは別として、興味深い解釈だと思います。
子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也
子曰く、夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かざるなり。
八佾篇にあるこの言葉は、解釈が分かれるとして有名です。
夷狄に君主がいるとしても、中華(君主がいないとしても)には及ばない、という説と、
君主がいない中華は、君主を戴く夷狄に及ばないという説との2つです。
ウェイリーの訳を見ましょう。
The Master said, The barbarians of the East and North have retained their princes. They are not in such a state of decay as we in China.
同上 p87
どちらともとれそうな翻訳ですが、どちらかといえば君主が不在の中華は夷狄にも及ばないというニュアンスが強いと思います。
D. C. Lau 「The Analects」
もう一つご紹介するのは、D. C. Lau 「The Analects」です。
ペンギンクラシックスのひとつですので入手しやすいと思います。
D. C. Lau は香港大学で学んだあとイギリスに留学し、ロンドン大学で教授を務めたあと香港に戻り、香港中文大学でも教鞭をとりました。
彼の翻訳はウェイリーのものと比べると読みやすい印象ですので、初心者はD. C. Lauから入るのがいいのではないでしょうか。
ではD. C. Lauの訳を見ていきます。ウェイリーと比較してみてください。
子曰、巧言令色、鮮矣仁
学而篇のこの言葉をD. C. Lauはつぎのように訳しています。
The Master said, ‘It is rare, indeed, for a man with cunning words and an ingratiating face to be benevolent.’
「The Analects」 penguin classics p59
D. C. Lauの翻訳では、「巧言令色」も含めすべて孔子のセリフとして訳されています。
ウェイリーが「巧言令色」を慣用句と解釈したのとは対照的です。
また「仁」という重要なキーワードの訳も特徴的です。D. C. Lauは「to be benevolent」という言葉で訳しています。
もちろんどちらが正しいということではなく、それぞれの訳に注目してその意味するところを考えてみるのも楽しいのではないでしょうか。
子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也
この言葉がどのように訳されているか見てみましょう。
The Master said, ‘Barbarian tribes with their rulers are inferior to Chinese states without them.’
同上 p67
興味深いことに、D. C. Lauの解釈はウェイリーのまったく逆です。
つまり、夷狄はたとえ君主を戴こうとも中華に及ばない、たとえ中華に君主が不在であろうとも、そういう解釈です。
ちなみにウェイリーの解釈は南宋の朱熹の注釈、いわゆる「新注」に近く、D.C.Lauの方は「古注」の解釈に近いのです。
梁の皇侃(488~545)の注釈にはこうあります。
此章重中国、賤蛮夷也。言夷狄雖有君主、而不及中国無君也。
中国を重んじて蛮夷を賤しむなり、とあります。
D.C.Lauの解釈は朱熹以前の伝統的理解の延長線上にあります。
そういえば朱熹が活躍した南宋時代(1127~1279)は、華北を金(1115~1234)に奪われ、中華の政権は長江流域以南にひっ迫した苦難の時代でした。
「夷狄」は具体的な脅威であったわけです。その現実認識が「新注」の解釈に反映されています。
中国が超大国になりつつある現在では「新注」の解釈よりも「古注」の解釈がよろこばれるのも当然といえましょう。
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